羽柴与一郎
日本の戦国時代の男性、羽柴秀長の嫡男
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生涯
羽柴秀長の実子で、嫡男とみられる[6]。母は秀長の正妻の慈雲院殿に推定される[7]。
与一郎は同時代史料では見られず、江戸時代に成立した文献『森家先代実録』と『高山公実録』でその存在が伝えられる[3]。それらの内容については信用できるとされる[3]。
『森家先代実録』によると、与一郎は秀長の「真子」で[3]、那古野因幡守の娘の岩(智勝院殿[8]、知勝院殿[9])を妻とした[10]。岩は与一郎の死後、秀長の養女となり、文禄3年(1594年)に森忠政に嫁いだ[11]。
『高山公実録』に記載の「郡山城主記」には、秀長の「御実子」が早世したため、天正10年(1582年)に丹羽長秀の三男・千丸(後の藤堂高吉[12])が秀長の養子になったとあり、この早世した秀長の実子が与一郎と考えられる[13]。黒田基樹はこの記述から、与一郎が死去した年を天正10年と述べる[2]。与一郎という仮名を称していたことから、死去した頃には元服済みだったと考えられる[14]。
なお、『森家先代実録』には、与一郎が紀州十津(十津川[注釈 2])の湯に入り、その地で病死したとあるが[15]、これは秀長の養嗣子・秀保の死去との混同によるものと考えられる[16]。
また、「木下与市郎」の名は三木合戦に関する文献にも現れる。『播磨鑑』に記載された「三木城寄衆次第」には、「与呂木村上野」の秀長(「筑前守弟羽柴小市郎」)とは別に、「大塚町上君ヶ峰 木下与市郎」とある[17]。法界寺蔵『別所軍記』にも、三木城を包囲する羽柴秀吉方の武将として「君峯木下与市郎」と記されている[18]。木下与市郎は、三木合戦のための付城・君ヶ峰城(兵庫県三木市宿原)の城主とされている[19][20]。