翟璋
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経歴
武勇を好み、能力にすぐれ、当時に勇猛と目されて、「虎癡」と称された。後唐の天成元年(926年)、鄴都馬歩軍都指揮使から平州刺史を領知した。ほどなく復州防禦使に転じた。天成3年(928年)3月、威塞軍節度留後となった。天成4年(929年)5月、正式に威塞軍節度使に任じられた。長興元年(930年)2月、検校太保を加えられた[1]。長興3年(932年)2月、入朝して右領軍衛上将軍となった[2]。3月、右羽林軍統軍に転じた[3]。長興4年(933年)、建雄軍節度使に任じられた[4]。清泰2年(935年)、再び威塞軍節度使となった[5]。
石敬瑭が起兵すると、新州は契丹に割譲された。契丹軍が帰国するにあたって、翟璋は軍兵を労う宴会のための物資を調達させられ、徴発は10万緡におよび、新州の民衆を苦しめた。はじめ契丹は必ず南に帰れると翟璋を宥めて、奚の反乱の鎮圧や雲州の包囲に動員した。翟璋はいずれも功績を挙げたが、契丹に留められて後晋に帰国できなかった。翟璋は鬱々として志を得ず、病にかかって、ほどなく死去した[6]。