老松堂日本行録
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伝来

『老松堂日本行録』の伝来については、中村栄孝や村井章介によってその過程が整理されている。
井上喜多郎・井上周一郎が所蔵していた同書は井上本と呼ばれ、日本の重要文化財となっている[5][6]。これは宋希璟の玄孫宋純が明宗11年(1556年)に希璟自筆の原本を老儒呉祥から手に入れ、仕立て直し改装、校正した古写本である[7]。この古写本は慶長の役(丁酉の乱)の際、日本に奪い去られ、その後、徳川家旗本の畑氏の所蔵となり、さらに小牧昌業の手に渡り、次に井上の所蔵となった[5][6]。井上本は1987年に刊行された岩波文庫本『老松堂日本行録 - 朝鮮使節の見た中世日本 - 』の定本となっている[8][9]。
小牧昌業の所蔵中に、萩野由之が借覧し影写したものが萩野文庫本として九州大学に所蔵されている[5]。同本の抄録写本が東京大学史料編纂所や京都大学にある[5]。
一方で、慶長2年(1597年)に朝鮮から日本に連行された鄭慶得が、日本僧が本書の古写本を持っているのを見て、「百金」をもって交換しようとするも断られ、代わりに筆写した慶得の筆写本がある[10]。慶得は筆写本を持ち帰国、その後、宋希璟の6世の孫である信之宋徴に贈られた[11][12]。1800年閏4月、慶得筆写本は宋家子孫によって木活字本として開刊された[11][12]。1925年、谷村一太郎が木活字本のうち一冊を宋希璟の子孫宋鎮禹から譲り受けており、現在は京都大学附属図書館谷村文庫に収められているとされる[12]。また、小川寿一はこの谷村本を底本にして萩野文庫本と校合し、解説や注釈などを付け、1933年に太洋社から活字として刊行した[12][注釈 1]。
その他に、朝鮮総督府朝鮮史編修会が希璟の子孫から別の木活字本を入手している[13]。この原本は行方知らずとなったが、筆写されたものが東京大学史料編纂所にある[13]。
古写本と鄭慶得筆写本をもとにした木活字本との異同は非常に大きいとされる[13]。ただし木活字本の祖本は古写本であり、古写本のほうが原型(希璟自筆原本)に近く善本だと考えられている[13]。
作成の背景
応永26年(1419年、朝鮮世宗元年、明永楽17年)6月、かねてより倭寇に手を焼いていた朝鮮は、倭寇の根拠地であった対馬を征討するために軍勢を送った(応永の外寇、朝鮮では己亥東征)[14]。朝鮮側は事前に九州探題からの使僧正祐らに対馬征討計画を告げ[15]、また、征討後にも対馬の宗都都熊丸(貞盛)に使者を送った[16][注釈 2]。
征討後の朝鮮の要求は、対馬の倭寇らに対してその本拠である対馬を放棄して朝鮮に来降するか、日本本国へ帰還せよとのことであった[16]。しかし、宗都都熊丸からの使者が朝鮮に来て降を乞うも、一方で朝鮮国王からの印信を請い、朝鮮と対馬との通好を求めた[18]。意を得ない対馬からの返答に対して、朝鮮は再び対馬の巻土来降を要求した[19][注釈 3]。
世宗2年閏正月には、都都熊丸の使者と称する時応界都からの口頭の伝言が礼曹を通じて啓された[21]。その内容は、対馬島民を巨済島に遣わし朝鮮の外護となし、朝鮮は人民を入島耕墾させ、その田税を対馬に分けて対馬の困窮を救済すること、また、都都熊丸は対馬から去ることはできないが、対馬が朝鮮の州郡にならい州名を付け、印信を給わったならば、臣下として朝鮮国王の命に従うことなどを述べたものであった[22][23]。これに対し、朝鮮は対馬の属州化を認め、都都熊丸に印を授け、対馬島民は都都熊丸から書契をもらわなければ朝鮮において接待を受けられないことを決め、朝鮮と対馬との一連の戦後交渉は終結した[24]。
一方で日本側では、朝鮮軍が対馬から撤退してひと月ほど経った8月7日に、室町幕府4代将軍足利義持のもとへ九州の少弐満貞から対馬攻撃の報が注進された[25]。足利義持は、明から日本国王を冊封された父足利義満や対明貿易に積極的であった重臣斯波義将の死後、応永18年(1411年)9月にそれまでの対明外交を転換させ、明との冊封関係を拒否していた[26][27]。さらに応永25年(1418年)には、日本への軍事遠征をちらつかせ朝貢を求めた勅書を携え来日した、永楽帝からの使者呂淵を面会せずに追い返し[26]、同26年7月末にも再来日した呂淵を再び追い返して日明関係は断絶していた[28]。
少弐満貞からの注進状の内容には、今回の侵攻は「悉高麗国者」であったが、唐船(明船)2万余艘も共に襲撃する予定であった(台風により目的を遂げなかった)との情報が含まれており、そのことを聞いた義持は朝鮮が明に従い出兵したと危機感を抱き警戒した[29][30][注釈 4]。その後、九州探題渋川義俊からの注進状も届いたが、先に届いた少弐の報告と内容が異なっており、朝鮮の考えが分からなかった義持は、博多の禅僧無涯亮倪を正使として使節団を朝鮮に派遣した[32][33]。
無涯らは11月20日には富山浦に着き、12月には都漢城で朝鮮国王世宗に義持からの書契(外交文書)や礼物を進上した[34][33]。日本からの書契には「無音を謝し、起居を問い、兼ねて仏典を請い求める」ことが書かれており[34]、これは朝鮮側の動向を窺ったものであったとされる[35][33]。
翌年(世宗2年、応永27年、1420年)に入り、世宗は日本側の求めに応じて大蔵経を与え、今度の来訪の真意を尋ねたが、無涯は「言語につくすべからず」と述べ平和を望む漢詩を献上し、世宗の問をかわした[35][36]。世宗は朝鮮と日本との通好は今後とも変わらないことを告げ、無涯らに対馬征討の理由を話した[35][36]。
役目を果たした無涯ら日本使節団は、翌閏1月に入り帰国を申し入れ、3月には博多に着した[37]。この時、世宗は日本による使者派遣の回礼として、宋希璟を回礼使に任じ、無涯らに同行させた[37]。