聶嶼
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若くして僧となり、吟詠を学んだ。鄭珏が科挙を主催すると、聶嶼は同郷の趙都とともに試験に赴いた。趙都は鄭珏に賄賂を贈ったため、翌日に及第したが、聶嶼は及第しなかった。聶嶼は来訪した人を罵って脅したことから、鄭珏は恐れて、ふたりとも及第させた。しばらくして拾遺となり、成徳軍節度使の郭崇韜を頼って成徳軍掌書記をつとめた[1]。
後唐の明宗のとき、聶嶼は起居舎人となった。かれの性格は偏屈で、当時の人の多くがかれを嫌った。天成元年(926年)、聶嶼は鄴都留守判官に任じられたが、趙敬怡や呂夢奇と仲が悪かった。さらに河東節度判官に転じたが、着任するとその地の風俗を田舎びたものとみなして、現地の人士とつきあおうとしなかった。郭崇韜の次男の妻が夫を失ってまもない喪中にあるにもかかわらず、聶嶼は彼女をめとった[2]。
ある人が安重誨に訴えると、ときに趙敬怡が入朝して枢密使となっていたので、呂夢奇と共謀して聶嶼を殺害しようとした[3]。天成3年(928年)9月23日、聶嶼は温韜らとともに明宗の詔により死を賜った[4]。