鄭珏

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鄭 珏(てい かく、生年不詳 - 932年)は、末から五代十国時代にかけての官僚政治家

光化3年(900年)、進士に及第した。弘文館校書・集賢院校理・監察御史を歴任した。後梁が建てられると、鄭珏は左補闕・起居郎となり、中書舎人・翰林学士となった。官を歴任して礼部侍郎となった[1][2]貞明2年(916年)10月、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[3]。貞明4年(918年)、刑部尚書・集賢院大学士・判戸部事を兼ね、滎陽郡開国侯に封じられた[4]。貞明6年(920年)、監修国史・判度支となった[5]

同光元年(923年)、後唐荘宗開封府に入ると、鄭珏は萊州司戸参軍に左遷された。同光2年(924年)、曹州司馬に移された。張全義が鄭珏をまた宰相として用いるよう郭崇韜に言った。ほどなく鄭珏は入朝して太子賓客となった[6][7]天成元年(926年)、明宗が即位すると、鄭珏は任圜とともに宰相に任命された[8]。天成2年(927年)、特進門下侍郎を加えられ、太微宮使・崇文館大学士を兼ねた[9]

天成3年(928年[10]、鄭珏は老病のため耳を患い、中書省の任に耐えないとして、四度上章して引退を願い出た。開府儀同三司の位を受け、尚書左僕射として致仕し、鄭州に別荘を賜った。天成4年(929年[11]、明宗が開封府から洛陽に帰ると、宦官の使者を派遣して鄭珏を慰問させ、銭20万と羊100頭を賜った。長興3年(932年)11月5日、鄭珏は死去した[12]司空の位を追贈された[6][13]

家族

唐の昭宗朝の宰相である鄭綮の従孫にあたる。

脚注

伝記資料

参考文献

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