聶文進
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若くして兵卒となり、書道と算術を得意とし、後晋の劉知遠の幕下で事務を処理した。劉知遠が太原府に駐屯すると、文進は兵馬押司に累進した。天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が開封府に入ると、文進は枢密承旨に任じられた。右領軍衛大将軍・右威衛大将軍を歴任した。枢密承旨のまま、右衛大将軍に転じた。郭威が枢密使となると、文進は郭威に信任された。文進は驕慢専横のことがあって、長らく改められなかった。文進は将軍たちを朝堂に召し出して、儀鸞・翰林・御厨に飲食を提供させたが、御史もあえてかれを弾劾しなかった[1][3]。
乾祐3年(950年)、文進は李業らとともに楊邠らを粛清する政変を起こした。楊邠・史弘肇らが殺害される前日の夕方、文進は仲間たちとともに詔を作り、朝廷の事務でおよそ文字に関わることは、いずれも文進の手から出された。翌日に政変が起こると、文進は軍籍を点検し、軍衆を徴発し、取捨を指揮した。郭威が大名府で起兵すると、はじめは文進は粛清に関与していないといっていたが、証拠が明らかになると、文進が乱を主導したとして、大いに罵った。郭威が封丘県を通過し、隠帝劉承祐が北郊に宿営すると、文進は「臣がここにいますので、宮中のことは心配しないでください」と李太后に告げた。兵が敗走した後、文進は仲間たちと痛飲して、歌い笑って平然としていた。11月22日(951年1月2日)、明け方おそくなって、隠帝が殺害されると、文進は逃げ隠れたが、軍士に追いかけられて、その首級をさらされた[1][4]。