肥田広司
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1929年(昭和4年)、明治大学法学部卒業。1931年(昭和6年)から衆議院議長秘書を務め、1933年(昭和8年)に広島県議会議員として初当選後、1935年(昭和10年)と1939年(昭和14年)に連続当選。辰之助及び琢司らと共に父子兄弟連携して政治活動を行い、広島県政で望月派と肥田派の二大派閥として台頭していた[3]。1941年(昭和16年)、海田市町長に就任したことにより現職の広島県議会議員と海田市町長を暫く兼任していたが、1946年(昭和21年)のGHQによる公職追放を受け政治家を引退した[4]。
公職追放解除後は、スリランカ政府による協力で中国電力社長の財界長老鈴川貫一らと設立した社団法人世界平和広島仏舎利奉安会代表理事[5]、自民党広島県支部連合会常任顧問、TBS系列局の株式会社中国放送顧問、五洋建設グループの警固屋船渠株式会社相談役などを歴任。全日空社長の岡崎嘉平太らと協力しながら推し進めた民間外交など、戦後復興から郷里発展に尽力して政財界で名を馳せ[4]、母校の明治大学交友会では名誉顧問を務めた[6]。