能登上布

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能登上布の手織機

能登上布(のとじょうふ)は、石川県能登半島で製造される麻織物。古くは能登縮(のとちぢみ)や阿部屋縮(あぶやちぢみ)と呼ばれ、昭和初期には麻織物として全国一の生産量を有していた[1]

伝承

崇神天皇の皇女である沼名木入比賣命(ぬなきいりびめのみこと)が能登に滞在した際に麻糸を用いた機織りを教えたとする伝承がある[2]。中能登町能登部にある能登比咩神社の祭神は沼名木入比賣命である[2]

中世

平安時代の能登国では調や庸としてアサを生産していた記録があり、鎌倉時代には奈良の東大寺に麻糸を納めた記録がある。

近世

元禄年間(1688年~1703年)、中能登で製造される麻糸は近江上布の原糸として用いられていた。

文化11年(1814年)から文化15年(1818年)頃には近江国から職工を招いて染織技術を学び、機織りの技術が格段に向上した。文政元年(1818年)には能登(ちぢみ)を製造して大坂などに出荷を始めた。加賀藩による庇護の元、安政年間(1855年~1860年)以後には能登縮が能登部を中心に問屋制家内工業として成長した。

近代

1877年(明治10年)頃には能登整布会社が設立された。1895年(明治28年)には第4回内国勧業博覧会に出品されて三等賞を受賞した。1904年(明治37年)頃には能登上布という名称が制定された。1907年(明治40年)には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)に献上された。

1914年(大正3年)には能登麻織物同業組合が設立された。古くは麻が用いられていたが[3]、大正末期頃からは苧麻が用いられるようになった[1]。1928年(昭和3年)頃には織元が120軒以上となり、この時期が能登上布の最盛期とされる。生産量は年間約40万反であり、麻織物としては全国一の生産量だった。1940年(昭和15年)までは海晒しを行っており、生産地付近の海岸は雪が降ったように白一面となっていたとされる[1]

現代

能登上布会館

1960年(昭和35年)5月27日、能登上布は石川県指定無形文化財に指定された。対象者は能登上布保存会。1981年(昭和56年)には石川県立鹿西高等学校に資料館「能登上布の里」が設置され、技術者が生徒に機織りを教えている[1]。1982年(昭和57年)には能登上布の織元が山崎麻織物工房のみとなったこともあり、1988年(昭和63年)には能登麻織物協同組合が解散した。

1996年(平成8年)には鹿島郡鹿西町に伝承施設として能登上布会館が開館した。2005年(平成17年)、石川県によって能登上布が「いしかわの工芸・百選」に選定された。

脚注

参考文献

外部リンク

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