能登下村藩
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関連地図(石川県能登地方)。赤丸は藩領の村[1](相給を含む)のうち主要なものを示す。藩領は能登国に散在していた。
元禄2年(1689年)6月、信濃国高遠藩主・鳥居忠則は江戸城馬場先門の守衛を命じられていたが、家臣の高坂権兵衛が夜中に密かに旗本・平岡頼恒邸の長屋を覗いたという罪により逮捕され、主君の忠則も閉門を命じられた[2]。ところが閉門中の同年7月23日に忠則は急死[2]。逮捕された高坂も取調中に舌を噛み切って自殺した[3]。このため真相は闇の中となり、忠則の後嗣であった鳥居忠英がそのまま家督を相続することを認めなかった(「遺跡の沙汰に及ばれず」)[3]。領地についても没収が相当とされたものの[3]、鳥居家は鳥居元忠以来の名族であるため、「先祖の勲功」を考慮した結果として、元禄2年(1689年)8月10日、忠英に能登国内の内、鹿島・珠洲・鳳至・羽咋四郡の内の1万石を与えた[3]。能登下村藩の立藩とみなされる。
陣屋の所在地について、『藩と城下町の事典』(東京堂出版、2004年)は現在の田鶴浜町の「新村」である[4]と記し、google mapには田鶴浜の東嶺寺の近傍に「下村藩陣屋跡」が示されている(2022年12月現在)。郷土史・城郭史家の高井勝己は田鶴浜に陣屋が所在するとする説を誤りとする[5]。高井勝己は、その名が伝える通りに鳥居氏は鹿島郡下村(現在の七尾市下町)に陣屋を置いたとし[6]、この陣屋は能登天領の「下村陣屋」と同一とする[6]。
元禄8年(1695年)5月、忠英が近江水口藩に1万石加増の上で移封されたため、能登下村藩はわずか6年で廃藩となり、その所領は幕府領となった。
