舎人局
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舎人局(とねりきょく)は、明治時代初期の太政官に置かれた官署である。宮中の雑使、宿直、供奉など、舎人に関する事務を扱った。1870年(明治3年)11月7日の太政官布告にその名称が見え、1871年(明治4年)8月の官制改編により廃止され、その役割は式部局を改称して設けられた式部寮へ引き継がれた。
舎人局は、同時期に置かれた雅楽局とともに、明治初期の宮中儀礼・宮内関係事務を担う太政官内の部局であった。雅楽局が雅楽・伶人に関する事務を扱ったのに対し、舎人局は宮中の雑使・宿直など、宮中儀礼や行幸・行啓を実務面で支える人的編成に関わった。1871年(明治4年)8月に式部寮が設置されると、廃局となった雅楽局・舎人局の役割は式部寮に吸収され、式部寮は宮中の礼典・祭祀・交際・雅楽などを掌った[1]。
舎人局は、明治初期の太政官制度において、宮中の雑使や宿直に関わる職員を管掌した官署である。『精選版 日本国語大辞典』の「直丁」項目では、明治の太政官制度における直丁について、太政官の舎人局、のちの式部寮、および宮内省の内舎人局の職員であり、雑役・宿直に従事したものと説明されている[2]。
また同項目には、太政官布告の用例として、「舎人局 直丁 掌宮中雑使」が掲げられている[2]。このことから、舎人局は宮中の雑使に関わる実務官署として設置されていたことがわかる。
舎人局は、式部局・雅楽局と並んで明治初期の太政官に置かれた宮中関係官署の一つであった。国立国会図書館が公開する太政官制度沿革図では、明治3年11月7日の太政官中に舎人局・雅楽局が置かれ、のち式部局・式部寮へ接続する流れが図示されている[3]。
沿革
設置
舎人局の名称は、1870年(明治3年)11月7日の太政官布告に見える[2]。この時期の太政官には、宮中儀礼・宮内関係事務を扱う部局として、式部局、舎人局、雅楽局などが置かれていた。
1870年(明治3年)12月2日には、舎人局・雅楽局・内舎人局・御厩局の四局に権助を置くことが定められた[4]。このことは、舎人局が明治初期の太政官制のなかで一定の職制を備えた官署であったことを示している。
正院と式部寮への統合
明治4年の官制改編では、太政官が正院・左院・右院に分けられ、正院には式部局・舎人局・雅楽局などが置かれた[3]。その後、1871年(明治4年)8月、太政官正院に新設された式部局を改称する形で式部寮が設置された。JACARの組織名解説では、式部寮は同時に廃局とされた雅楽局・舎人局の役割を引き継ぎ、宮中の礼典・祭祀・交際・雅楽などを掌ったと説明されている[1]。
この改編により、舎人局が担っていた宮中雑使・宿直などに関わる事務は、式部寮の職掌の一部として再編された。式部寮はその後、宮内省や正院への所属変更を経て、1884年(明治17年)に式部職へ改称された。
職掌
舎人局の職掌は、宮中における雑使、宿直、供奉など、舎人に関わる実務であった。太政官布告第802号の用例では、舎人局の直丁について「宮中雑使を掌る」とされている[2]。
ここでいう直丁は、明治の太政官制度では、太政官の舎人局や式部寮、宮内省の内舎人局に置かれ、雑役・宿直に従事した職員であった[2]。そのため、舎人局は、宮中儀礼や官署運営を支える下級実務職員の配置・勤務に関わる官署であったと位置づけられる。
舎人局の事務は、式部寮へ引き継がれた後、式部寮の職掌のうち舎人関係の一部を構成した。式部寮は内外の儀式、図書、舎人、雅楽などを管掌した官署であり、舎人局の事務はそのうち宮中実務・舎人関係に接続するものであった。
内舎人局との関係
舎人局と内舎人局は、名称が類似するが、明治初期の官制上は別個の官署として扱われた。太政官制度沿革図では、太政官側に舎人局が、宮内省側に内舎人局が別系統で示されている[3]。また、1870年(明治3年)12月2日の公文書件名でも、舎人局・雅楽局・内舎人局・御厩局の四局が並列されており、舎人局と内舎人局が同一局ではなく別局として扱われていたことがわかる[4]。
直丁についても、『精選版 日本国語大辞典』は、太政官の舎人局、のち式部寮と、宮内省の内舎人局の職員であったと説明している[2]。このことから、舎人局は太政官側の宮中雑使・宿直に関わる官署であり、内舎人局は宮内省側で舎人関係の事務を扱った官署であったと整理できる。
関連官署
式部局・式部寮
舎人局は、式部局・雅楽局とともに明治初期の太政官内に置かれた官署であった。1871年(明治4年)8月に式部寮が設置されると、舎人局と雅楽局は廃止され、その役割は式部寮へ引き継がれた[1]。
式部寮は、内外の儀式、図書、舎人、雅楽などを管掌した官署であり、舎人局の職掌はこのうち舎人関係の事務に接続する。
雅楽局
雅楽局は、舎人局と同時期に太政官内に置かれた官署で、雅楽・伶人に関する事務を扱った。1871年(明治4年)8月に雅楽局が廃止されると、その役割は式部寮雅楽課へ引き継がれた。舎人局と雅楽局はいずれも、明治初期の宮中儀礼・宮内関係事務を式部寮へ統合する過程で廃止された官署である。
内舎人局・御厩局
内舎人局は、舎人局とは別に、宮内省系統に置かれた舎人関係の官署である。1870年(明治3年)12月2日には、舎人局・雅楽局・内舎人局・御厩局の四局に権助を置くことが定められている[4]。このことから、明治初期には太政官側の舎人局と、宮内省側の内舎人局が並存していた時期があった。
御厩局は、宮内省系統で馬・厩に関する事務を扱った官署であり、内舎人局とともに宮中の供奉・行幸啓などを支える実務部門と関係した。舎人局、内舎人局、御厩局はいずれも、宮中における人的・実務的な運営を支える官署群として位置づけられる。
研究上の位置づけ
舎人局は、存続期間の短い官署であり、単独で大きく論じられることは多くない。しかし、明治初期の太政官制において、宮中の雑使・宿直・供奉などの実務を扱った官署として、式部局・雅楽局・式部寮との関係から位置づけることができる。
特に、1871年(明治4年)8月に式部寮が設けられ、雅楽局・舎人局の役割を引き継いだことは、明治政府が宮中儀礼・祭祀・交際・雅楽・舎人関係の事務を式部寮へ統合していく過程を示している[1]。このため舎人局は、明治初期の宮中実務官署から式部寮・式部職へ連なる制度史を理解するうえで、小さいながら重要な節点である。
また、舎人局は、古代以来の「舎人」という職名・身分が、明治初期の近代官制のなかでどのように再利用・再編されたかを示す事例でもある。ただし、律令制下の大舎人寮・内舎人などと、明治初期の舎人局を直線的に同一視することはできない。舎人局は、明治政府の宮中事務再編のなかで設けられた短期的な官署として捉える必要がある。