雅楽局

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雅楽局(ががくきょく)は、明治時代初期に太政官内に置かれた雅楽管掌の官署である[1]。1870年(明治3年)11月7日に仮設置され、1871年(明治4年)8月10日の官制改正で廃止されて式部寮雅楽課に引き継がれた[1]

現代の宮内庁式部職楽部による雅楽演奏。雅楽局は制度上その前身に位置づけられる。

この機関は、近世以来の三方楽所および紅葉山楽人をはじめ、宮中・社寺・幕府儀礼のもとで分掌されていた雅楽伝承を近代国家の制度のもとへ再編したものであり、のちの宮内省式部職雅楽部を経て、現在の宮内庁式部職楽部へ連なる制度上の起点とされる[1][2]。また、雅楽局の設置は、伝授権・奏演権の整理、旧楽人中心の楽団再編、公式奏演曲目の決定、規範譜の作成などをともなう近代雅楽制度改革の出発点でもあった[3][4]。その成果は明治撰定譜の編纂と近代以後の雅楽伝承の基盤形成へつながった。

本項では、雅楽局の歴史的意義と役割を明確にするため、近世における雅楽伝承の前史から、雅楽局の設置とその制度的再編、さらに廃止後の後継機関と近代雅楽の展開に至るまで、一連の流れに沿って解説する。

概要

明治維新後の新政府は、宮中儀礼の再編と東京奠都にともない、従来の諸楽所・楽家を統合して宮中の奏楽を新たな官制のもとに置こうとした。そのなかで雅楽局が設けられ、旧来の楽人は伶人・伶員などの官的な職制へ組み込まれた[1][5]。雅楽局に異なる楽所の楽人が集められたことで、旋律や息継ぎ、伝承曲目の差異を整理する必要が生じ、のちに明治撰定譜の編纂へつながったとされる[2]。さらに1870年(明治3年)12月には、新体制下での唐楽高麗楽舞楽催馬楽朗詠の公式曲目が定められ、これに従ってのちの『明治撰定譜』第一次撰定分が作成されたことから、雅楽局設置は近代雅楽の規範化の出発点でもあった[6]

前史

近世三方楽所の成立

応仁の乱以後、京都における雅楽は大きく衰退したが、正親町天皇が天正年間に天王寺楽人五人を右方舞人として京都へ召し、さらに1592年(文禄元年)には後陽成天皇が南都楽人三人を召して宮廷楽人と合体させた結果、京都・南都・天王寺の三系統からなる三方楽所が形成された[7]。こうして整えられた三方楽所は、その後も近世を通じて雅楽の技芸を伝承する基本的枠組みとなり、京都楽所の多氏・豊原氏・安倍氏・大神(山井)氏、南都楽所の上氏・辻氏・芝氏・東氏・奥氏・窪氏・久保氏・中氏・喜多氏・西京氏・井上氏、天王寺楽所の薗氏・林氏・東儀氏・岡氏などの楽家によって支えられた[7]。こうして成立した三方楽所は、近世を通じて朝廷儀式に参仕する雅楽伝承の基本単位となっただけでなく、楽家ごとの家職・知行・扶持・技芸伝承を支える制度的枠組みとして機能した[8][9]。とくに幕府からの楽所領配分と、朝廷からの御扶持とによってその生活基盤が支えられた点に、近世雅楽制度の特徴があった[9][3]。さらに近世の雅楽伝承は、三方楽所の成立によって自動的に維持されたのではなく、楽所奉行四辻家による統制、奈良における在地支配、各地の裁許や免許制度などを通じて支えられていたと考えられる[8]。このことは、近世雅楽が単なる家職的伝承ではなく、政治的・制度的統制のもとに維持された秩序であったことを示している。

また三方楽所は、単に儀礼時に奏楽を行う集団ではなく、家の地位、役務、生活基盤、技芸伝承の継続が結びついた近世社会の楽人秩序として把握できる[8]

三方楽所と紅葉山楽人

近世の雅楽伝承は、京都・南都・天王寺の三方楽所によって支えられていた[2]。16世紀末に三方楽所が成立したのち、江戸時代には三方楽人の一部が幕府の要請により江戸へ下向し、1618年(元和4年)の紅葉山東照社遷宮、1637年(寛永14年)の日光楽人設置、1642年(寛永19年)の江戸紅葉山楽人設置を経て、将軍家祭祀と幕府儀礼に奉仕する江戸側の楽人秩序が形成された[10][7]。『紅葉山楽人考』によれば、紅葉山楽人の奏楽は紅葉山東照社だけでなく、増上寺寛永寺日光山などにおける将軍家祭祀・法会でも継続的に確認できる[11]。当初は将軍家祭祀・法会を主たる職務としていたが、近世中期には聖堂釈奠、近世後期には営中管絃にも関わるようになり、幕府の楽儀を担う存在として職務を広げていった[11]。また紅葉山楽人は、江戸における雅楽導入の窓口として諸藩士・旗本・武家への教授活動も行っており、上方三方楽人への入門の取次などを通じて、武家独自の雅楽実践の形成にも関与した[11]。紅葉山楽人は、三方楽所由来の人的・技芸的基盤を持ちながらも、徳川家祭祀と幕府儀礼に対応するため江戸で再編された楽人集団であり、幕府直属性と上方由来の楽人社会への帰属性との両面を持っていた[11][12]。ただし紅葉山楽人の常時の人数は十数家ほどで、職務は主として奏楽にあり、舞楽を伴う大規模儀礼では関西楽人の下向を必要としたとされる。このことは、紅葉山楽人が江戸幕府祭祀に不可欠な中核奏楽集団でありながら、舞を含む雅楽全領域を単独で完結させる組織ではなかったことを示している[11]

近世楽人集団の構造

近世の楽人集団は、単なる演奏者集団ではなく、家職としての雅楽伝承を軸に、宮中・社寺・幕府との関係、家格、左右の別、役務、知行や扶持などの生活基盤が結びついた秩序であった[8]。近世の三方楽所は、京都に在住して日常的に朝儀の楽事を担う楽家と、通常は天王寺・南都に居住し舞楽上演などに際して上京する楽家とから成っており、楽所奉行四辻家を本所としつつ、三方から老分・年番などの諸役を出して運営されていた[3]。したがって三方楽所は、単なる楽人集団ではなく、京都常住の中核層と地方居住の拡張層とを含む複合的な制度秩序であった。近世の三方楽所は、朝廷儀式に参仕する一方で幕府からも保護を受け、その経済的基盤は幕府からの朱印地配当と朝廷からの御扶持という二重の仕組みによって支えられていた[9][3]。幕府は1665年(寛文5年)に三方楽人へ楽人領二千石の朱印状を下賜し、これを家領米・師匠料米・稽古料米・芸料米などに分けて配分した[12]。同時に、この頃から三方及第という楽人の試験が始まり、三方楽所は知行配分と技芸評価をともなう制度的秩序として維持された[12][7]。一方、紅葉山楽人はこうした楽所領配分や三方及第には参加せず、三方楽所と人的連続性を持ちながらも、制度上は別の秩序として扱われていた[12]

幕末の宮中行事と分掌構造

幕末の宮中行事における雅楽奏演は、正月三節会舞御覧新嘗祭・内侍所臨時御神楽・諸社の祭礼奉仕・御遊など、多様な行事に分かれていた[6]。そこでは舞楽御神楽東遊・管絃・国栖奏・大歌などが、それぞれ異なる機能と位置づけをもって用いられていた[6]。舞楽を中心とする諸行事は三方楽所の楽人が担当したが、東遊では京方・南都方の楽人が中心となり、御神楽は京方の特定家筋の楽人と堂上公家が参仕した[6]。また、幕末までの宮中雅楽は地下楽人だけでなく、天皇・宮家・堂上公家によっても分掌されていた[3]。楽人が三管と舞を専業としていたのに対し、弦楽器や歌物は上の領分であり、琵琶西園寺家菊亭家四辻家、歌物の綾小路家持明院家など、上流側の専門楽家も存在した[3]。したがって1870年(明治3年)の改革は、三方楽所と紅葉山楽人の再編にとどまらず、上と地下に分かれていた宮中雅楽の分掌全体を、伶人中心の体制へ移し替える転換でもあった。このような複雑な分掌構造と奏演権・伝授権の体系を解体し、職業的音楽家である伶人に伝承を一元化したことに、1870年(明治3年)の雅楽局設置の大きな意味があった[6]

南都方は、春日大社興福寺など奈良の社寺儀礼と深く結びついた系統であり、氷室神社は江戸時代に南都方楽人の拠点であったとされる[13][14]。また、近世史料には「南都楽所」の名が見え、1848年(弘化5年)の史料には、寺院での奏楽奉納に際して守るべき条々が「南都楽所」名義で示されていることから、在南楽人による奏楽統制の存在が確認できる[15]。さらに奈良では、春日若宮おん祭のような祭礼において神楽・田楽・猿楽・舞楽など多様な芸能が展開しており、こうした宗教儀礼と芸能実践の蓄積が南都系の舞楽伝承の文化的背景をなしていた[16]

設置の背景

明治国家の音楽政策と雅楽

塚原康子は、明治国家の音楽政策の柱として、国家儀礼・国際儀礼に伴う音楽の制度化、国民教化のための国楽の創成、音楽教育制度の確立を挙げている[4]。このうち雅楽は、国家祭祀や宮中儀礼に不可欠な在来音楽として、明治初年から制度的整備の対象となった[3][4]。1870年(明治3年)の雅楽局設置に始まる改革の要点は、伝授権・奏演権の整理、旧楽人中心の楽団再編、公式奏演曲目の決定、規範譜の作成、楽人の定員と編成の決定、及第規則の見直しにあった[3]。したがって雅楽局の設置は、旧楽所の整理にとどまらず、日本が近代国家として新たな祭祀秩序と儀礼音楽制度を構築する最初の段階として理解される[3][4]

東京奠都と宮中儀礼の再編

維新期の三方楽所は、江戸時代以来の知行や扶持の仕組みをなお引き継ぎつつ存在していたが、明治政府の成立と東京奠都にともなう宮中儀礼の再編によって、その位置づけは大きく変化した[17][6]。明治初年の宮中行事改編では、幕末の執行状況が「旧例」として引き継がれつつ、その上に近代国家の祭祀秩序に対応した改編が加えられた[6]。これにより、京都・奈良・天王寺・江戸に分かれていた従来の楽人秩序を、東京を中心とする新たな体制のもとへ組み直す必要が生じた。

雅楽局設置の経緯

明治初年において雅楽は「皇国」の伝統的音楽として重視され、楽人組織は比較的安定した立場にあったが、1870年(明治3年)11月には三方楽所を支配していた楽奉行四辻家の職務が停止され、新たに太政官内に雅楽局が設置された[17]。これは、旧来の家職的・地域的な雅楽伝承を国家の管理する制度へ移し替える転換であった[1][17]。皇居の東京移転にともない、京都・南都・天王寺の三方楽所と江戸の紅葉山楽人を統一して、宮中の太政官に設けた雅楽局へ配属したことが、現在の宮内庁式部職楽部の起点であるとされる[2]。この再編が対象としたのは、単に三方楽所と紅葉山楽人という人員の集合ではなく、四辻家による宮中側統制、地域における奏楽統制、将軍家祭祀・法会・営中管絃などを担った江戸側秩序など、近世を通じて形成されてきた複数の統制体系そのものであった。したがって雅楽局設置は、近世雅楽の多元的な統制秩序を近代国家のもとで一元化する試みでもあった[12][8][11]

組織と制度

雅楽局の職制

塚原康子によれば、雅楽局は1870年(明治3年)11月7日に太政官内へ仮設置され、長・助・大伶人・少伶人・伶生が置かれた。さらに同月28日には相当官位の改正により、大伶人・中伶人・少伶人・伶員の区分がみられる[1]。また、この時期には東京在勤の旧楽人に辞令が出され、さらに紅葉山楽人にも伶員が発令され、関西の楽人にも順次東上が命じられた[6]

京都出張所と牛込雅楽稽古所

1871年(明治4年)3月14日には京都に雅楽局出張所が置かれ、同年4月24日には牛込御門内に雅楽稽古所が置かれた[1]。京都の出張所は旧地に残る行事や楽人への対応を担い、牛込の雅楽稽古所は、新たに再編された伶人の教習・伝習の中核拠点となった[1][18]

式部寮雅楽課への改組

雅楽局は1871年(明治4年)8月10日の官制改正で廃止され、式部寮雅楽課に引き継がれた[1][19]。国立国会図書館の「太政官制度沿革図」でも、1870年(明治3年)11月7日の雅楽局設置と、1871年(明治4年)8月10日の式部寮への改組、そののち式部職のもとで雅楽課が置かれた流れが確認できる[19]

楽人統合と伝承再編

伶人への再編と一元管理

雅楽局設置の大きな転換点は、それまで天皇・堂上公家・楽人のあいだで分掌されていた雅楽伝承を、職業的音楽家である伶人に集中的に担わせたことであった[6]。塚原は、近世以来の分担構造のもとで三管と舞を本業としてきた楽人に、国風歌舞や弦楽器を含む雅楽伝承のすべてを委ね、近代国家の宮中行事と国家祭祀の音楽を担わせる体制がここで形づくられたと述べている[6]

所伝・伝授権・奏演権の再編

この再編は、単なる人事異動ではなく、近世雅楽を支えていた複雑な伝授権・奏演権・所伝差の整理でもあった[6][3]。幕末には、御神楽や東遊のように特定家筋や特定系統だけが参仕できる種目が存在したが、明治以後は、それらが伶人による一元的伝承のもとへ組み替えられていった[6]。これにより、近世以来の協同分担型の楽団は、明確な統括者のもとで動く近代的な宮廷楽団へと移行していった[20]

明治撰定譜への接続

各楽所に伝わっていた奏法・旋律・曲目の差異は、統一的な教習と記譜の必要を生み、明治初年の制度改革と撰定事業の進展のなかで、1876年(明治9年)にいわゆる『明治撰定譜』が完成し、1888年(明治21年)には追加曲の撰定も終えた[20][6][2]。雅楽局設置に際して三方楽所と紅葉山楽人が一堂に集められ、それぞれが独自に伝承してきた楽曲や奏法を統一する必要に迫られた結果、『明治撰定譜』と呼ばれる楽譜集が編纂されたのであり、現在の宮内庁式部職楽部の伝承は原則としてこれに基づいている[7]。また、神楽・催馬楽・朗詠など、従来は室町家綾小路家などの公家が伝えてきたものも雅楽局へ移され、近代の宮中雅楽伝承の枠内に組み込まれた[7]

後継機関と近代雅楽の展開

式部寮雅楽課の教習と公開活動

雅楽局の後継である式部寮雅楽課の時期には、こうした再編の成果の上に、教習・公開活動・対外発信が展開した[18]。塚原康子によれば、1878年(明治11年)前後の式部寮雅楽課は、宮中行事に加え、公開演奏や博覧会への関与を通じて、日本音楽の対外発信の一端も担っていた[18]。また、幕末の宮中行事で唯一、衆庶の拝覧が許されていた舞御覧は、1878年(明治11年)12月の雅楽稽古所開業式公開演奏会と、その翌年から式部寮雅楽課が定例開催した春秋二季の「楽舞大演習」へと受け継がれ、舞楽のみならず各種の雅楽を広く示す近代の公開演奏会として再編されたと考えられる[6][3]

雅楽局以後の制度では、楽家出身者のみならず一般の人々にも雅楽伝習への道が開かれた。『宮内庁楽部 雅楽の正統』によれば、楽家出身ではない初の楽師は1875年(明治7年)の堀川久民であり、このことは雅楽局以後の制度が、旧来の世襲的楽所とは異なる開放性をもっていたことを示している[7]。また雅楽局では、雅楽のみならず洋楽もあわせて伝習することとなり、伶人・伶員には欧州楽伝習も命じられた[7]。この制度は、雅楽局が単なる旧楽人の再配置機関ではなく、近代国家の音楽制度として再編されたことを示すものである。

神道系祭祀への波及

塚原康子によれば、雅楽局設置に始まる近代雅楽制度は、宮中内部の再編にとどまらず、戦前期には神道系祭祀への雅楽普及にもつながっていった[3]。明治元年から2年頃の神祇官祭典では、神降ろし・供神饌・撤神饌に唐楽が中心的に用いられていたが、1870年(明治3年)の氷川祭や新嘗祭を経て神楽歌が導入され、1871年(明治4年)には神楽歌・神楽和琴・人長舞の伝習が開始された[3]。関西から楽人が十分東上する以前の東京での奏楽は、旧紅葉山楽人が担っていた可能性が高いとされる[3]。その後、宮中祭祀と関連づけられた全国の神社祭祀や教派神道の祭祀へも雅楽が導入され、皇典講究所や各地の神職会の講習などを通じて普及していった[3]。このことは、雅楽局が旧楽所の再編機関であっただけでなく、近代国家の祭祀音楽を実施・普及していく制度的な起点でもあったことを示している。

国家儀礼・国際儀礼と雅楽

維新後の雅楽は、宮中祭祀にとどまらず、近代国家の国家儀礼・国際儀礼の音楽としても再配置された[6]。明治初年には、舞楽や東遊が新年宴会・天長節神武天皇例祭などの新たな行事にも用いられ、さらに後継機関のもとで国賓接遇・万国博覧会・儀礼曲・儀式唱歌の創出へとつながっていった[6]。この意味で雅楽は、近代国家が自らの伝統と権威を可視化するための音楽として、新たな役割を与えられたといえる。

地域継承と旧楽人の活動

奈良・氷室神社例祭における舞楽「蘭陵王」。近代以後も旧南都方系統の地域継承が続いたことを示す一例。

ただし、再編は中央への吸収のみで完結したわけではない。寺内直子によれば、明治維新後には京都・奈良・大阪の楽人の大多数が東京へ移住したが、寺社行事に必要な奏楽人員は旧地にもなお求められ、残留した旧楽人は地域での雅楽の維持と復興に関与した[21]。京都出張雅楽課の廃止後、現地に残った旧楽人の一部は免官となったが、その後も地域で奏楽活動を継続した[6]。また、京都出張雅楽課廃止後、伊勢神宮陵墓での奏楽を除く畿内各社の奏楽は公務から切り離され、在地の旧楽人や民間雅楽奏者へ委ねられた[3]。京都では堀川久民らが北野天満宮を中心に活動し、奈良では芝葛忠東友秋窪近政らが氷室社・春日社等の奏楽を担って、1883年(明治16年)には奈良雅楽練習所設置へと進んだ[6][21]。大阪でも旧天王寺方楽人らが1884年(明治17年)に雅亮会を結成して、四天王寺住吉大社の楽事を継承した[6]。このことは、雅楽局以後の再編が中央への集約だけでなく、地方における旧楽人の再組織化と民間継承の拡大をも伴っていたことを示している。

研究史と位置づけ

雅楽局に関する研究は、従来、宮内省式部職雅楽部や明治撰定譜の成立、宮中儀礼の近代化との関わりから論じられることが多かった[20][6]。これに対して近年は、近世三方楽所の構造、紅葉山楽人の公的職務と文化的役割、地方に残留した旧楽人の活動など、近世から近代への移行過程を楽人集団の側から捉える研究も進んでいる[8][11][21]。雅楽局は、こうした研究動向の中で、近世的な楽人秩序の再編と近代雅楽制度の創出とを結ぶ節点として位置づけられる。

評価

雅楽局は存続期間こそ短いが、近世以来の分散的かつ分掌的な雅楽伝承を近代国家の制度のもとに再編し、現在に続く宮中雅楽の公的継承体制を形づくった点で重要である[20][2]。それは、近世に並立していた三方楽所と紅葉山楽人の秩序を、一元的な専門家集団へ統合する試みでもあった[7][12][11]。また、伝授権・奏演権の整理、公式奏演曲目の決定、規範譜の作成などを通じて、近代雅楽制度の骨格を定めた点にも大きな意義がある[3][4]。その意味で雅楽局は、単なる短命官署ではなく、近世楽人秩序の解体と近代雅楽制度の創出とを結ぶ転換点として位置づけられる。さらに、その後継機関を通じて神道系祭祀や地方の儀礼へ雅楽が普及したことを視野に入れるなら、雅楽局の再編は近代日本における雅楽の制度的拡張を促した契機でもあった[3][21]

脚注

参考文献

関連項目

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