航空魚雷

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第一次世界大戦中にソッピース クックーから投下された航空魚雷

航空魚雷(こうくうぎょらい、: aerial torpedo)は、航空機(固定翼機やヘリコプター)から投下できるように設計された魚雷海戦用の兵器)。第一次世界大戦で初めて使用され、第二次世界大戦で広範囲に使用された。現代では、対潜水艦用の航空魚雷以外は、かなりの部分が空対艦ミサイルに取って代わられたが、近年P-8で運用可能なHAAWCなど、再び注目されつつある。航空魚雷は、一般的に潜水艦や水上艦艇(魚雷艇水雷艇駆逐艦など)用の長魚雷よりも小型軽量である。

歴史的に、航空魚雷は巡航ミサイルの前身といえる[1][2]

航空魚雷は、通常の魚雷と次の点が異なる。

  • 空中を長距離(通常は200m以上)飛行する。
  • 水面への突入速度が速い(ほぼ航空機の飛行速度に等しい)[注釈 1]したがって、
    • 突入時の衝撃によって、弾頭の殻を破壊しかねない。
    • スクリューのブレード(羽根)を曲げてしまう。
    • 水面で飛び跳ねてしまう。
  • 落下速度があるうえに、入水時には斜め下向きに加速するので、水中深く沈降し、水底が浅い場合には突き刺さる。
  • 飛行中に気流の外乱を受け、制御しなければローリング(横回転)する。

これらに対して、本格的な航空魚雷である日本の九一式魚雷には、次の対策を施した。

  • 尾部安定翼を付加した。これは木製で、水面突入時に衝撃で脱落する。これによって、空中の姿勢が安定した。
  • 頭部にガードを付加した。これも木製で、水面突入時に衝撃で脱落する。これによって、頭部を防御するとともに、飛行中の減速に役立った。
  • スクリューを強化した。
  • ローリングを防ぐために、ジャイロスコープを利用したロール安定制御器を備え、本体両側の安定舵(航空機の補助翼に相当)を制御して、空中および水中で正中方向(真上)を保った。これは、加速度制御(PID制御)をする画期的なシステムであった。これによって、次の二つが可能になった。
    • 頭部内側の下面だけに補強材を入れた。
    • 水面突入時に、昇降舵を上げ舵にしておくことによって、深く沈降しないようにした。

戦術と使用方法

航空機から軽量の魚雷を落とすという方法は、1910年代の初期にアメリカ合衆国海軍の士官ブラッドリー・フィスク(Bradley A. Fiske)が考案した[3]。フィスクは、魚雷を爆撃機で運び投下する手順を考案し、標的艦が防御しにくい夜間の接近も含む戦術を立てて、1912年に特許を取った[4][5]。フィスクは、(想像上の)雷撃機が敵の銃撃を避けるために急速に鋭い螺旋形で降下し、次いで海面上約10〜20フィート(3〜6m)で魚雷を目的の方向に合わせて十分な距離を直線的に飛行するように定めた。雷撃機は目標から1,500〜2,000ヤード(1,400〜1,800m)の距離で魚雷を放つ[3]。フィスクは1915年に、魚雷の進路に十分な深度の余裕があれば、この方法によって敵艦隊をその港湾内で攻撃できると報告した[6](それは後にタラント空襲真珠湾攻撃で実現した)。

第一次世界大戦

1914年7月には、最初の英国製の航空魚雷が水上飛行機ショート・フォルダー(Short Folder)からアーサー・ロングモア中尉(後に空軍大将、サー)によって試験的に投下された[7]。1914年11月には、ドイツ人がツェッペリンから魚雷を投下する戦術をボーデン湖で試したという[8]。 1914年12月、クックスハーフェン空襲(Cuxhaven Raid)に参加した飛行隊長セシル・レストランジュ・マローン(Cecil L'Estrange Malone)はその直後にこう語っている。「もしこちらの水上機や、こちらを攻撃しにやってきた敵機に魚雷や軽砲が積んであったとしたら、どういうことができたか想像に難くない」[9]

1915年8月12日に、エーゲ海で作戦中の水上機母艦ベン・マイ・クリーから発進した司令官チャールズ・エドモンズ(Charles H. K. Edmonds)の操縦するショート 184は、直径14インチ、810ポンド(370kg)の魚雷を抱えて離水し、マルマラ海トルコの補給艦を撃沈した[5][10]。5日後には、エドモンズは再びトルコの汽船を魚雷で撃沈した。彼の編隊員の G. B. ダクレ空軍中尉は、エンジン不調で海への着水を余儀なくされた後、トルコのタグボートを撃沈した。ダクレはタグボートに向かって航行し、魚雷を放ち、その後離水して母艦に戻ることができた[11]。ショート・フォルダーを雷撃機として使用するには制約があった。魚雷を抱えて離水するには完璧な気象条件と穏やかな海が必要であり、魚雷を抱えた状態では燃料が尽きるまでの45分と少しだけしか飛ぶことができなかった[11]。これらの実績を基に、英国では雷撃機が何種類か作られた。ソッピース クックー、ショート シャール(Short Shirl)、ブラックバーン ブラックバード(Blackburn Blackburd)などである。大戦末期には雷撃機による飛行中隊が編成されたが、それらは遅すぎて運用に間に合わなかった[11]

1917年5月1日、ドイツの水上飛行機2機が魚雷を搭載して出撃し、サフォーク沖で2,784英トン(2,829トン)の英国汽船ジーナに対して魚雷を投下してこれを撃沈した。尚、2機のうち後続の1機は沈没するジーナからの銃撃で撃墜された。その後ドイツの雷撃機隊はオステンドとゼーブルージュで統合され、北海において更なる作戦行動を行った。[5]

1917年後半に米海軍は、400ポンド(180kg)の模擬魚雷を投下する試験を行ったが、投下した模擬魚雷が水面を飛び跳ねて危うく航空機と衝突しそうになった[7]

両大戦の間

アメリカ合衆国は1921年に最初の雷撃機マーティンMB-1の改良型を10機購入した。米海軍の飛行中隊と海兵航空団海軍兵器基地ヨークタウンに拠点を置いていた。ビリーミッチェル准将は、プロジェクトB(対艦爆撃デモ)の一環として、本物の弾頭を付けた雷撃の試験を提案した。しかし、海軍は航空爆弾の破壊効果にしか興味がなかった。それでも、模擬弾頭の魚雷を用いた試験が、17ノットで航行する戦艦4隻の戦隊に対して実施された。雷撃はよい成績を残した[12]

日本海軍は1931年に雷撃機で高度330フィート(100m)から速度100ノット(190km/h)で投下できる九一式魚雷を開発した[13]。1936年に魚雷に木製尾翼「框板」を付加すると、空気力学的に空中姿勢が安定した。框板は、水中突入時の衝撃で脱落するようになっていた。1937年には、先端に脱落する木製ダンパーを追加して、高度660フィート(200m)から速度120ノット(220km/h)で投下できた。1938年には、目標からの距離3,300フィート(1,000m)で九一式魚雷を投下するという戦術教義が定まった[13]。同様に、日本海軍は夜間攻撃と昼間の集中攻撃の教義を開発し、地上と空母艦載の雷撃機間での航空魚雷攻撃の調整をした[13]

日本海軍では雷撃機の編隊を二手に分けて敵戦艦の両舷前方から同時に攻撃することによって、魚雷を回避行動で避けられないようにするとともに、雷撃機隊への直接の対空砲火を緩和するようにした。それでも、日本の戦術専門家は、平時の演習中の観察によって、戦艦に対して雷撃は1/3の割合でしか命中しないと予測した[13]

1925年の初めには、アメリカ合衆国も純粋な航空魚雷の設計を開始した。このプロジェクトは中止され、数回復活し、最終的に魚雷「Mk13」として1935年に運用を開始した[14]。Mk13は、他の国の航空魚雷よりもかなり太くて短かった[14]。他の国の航空魚雷よりも遅かったが、航続距離は長かった[14]。航空機からの投下は、当時の日本と比べて低く遅かった(高度50フィート(15m)、110ノット(200km/h))[14]

第二次世界大戦

1940年11月11〜12日の夜、イギリス艦隊航空隊の複葉機ソードフィッシュタラント空襲において、魚雷と爆弾の組合せで3隻のイタリア戦艦を撃沈した。イギリス雷撃機が発射した魚雷はドイツ戦艦ビスマルクの舵を破壊し、イギリス艦隊が捕捉するのを助けた。第二次世界大戦前半のイギリスの標準的な航空魚雷はMark XIIだった。直径18インチ型で、重量1,548ポンド(702kg)、炸薬は388ポンド(176kg)のトリニトロトルエン(TNT火薬)であった[15]

ドイツの航空魚雷の開発は、1930年代にこのカテゴリーを軽視し続けたために、他の交戦国に後れをとっていた。第二次世界大戦の初め、ドイツでは月間5本の航空魚雷を作っていただけであり、しかも半分は空中投下演習で失っていた。その代わりに、イタリアの航空魚雷はリエカで作られ、結局1,000本を配備した[16]

珊瑚海海戦にて空母瑞鶴から魚雷を抱えて離艦する九七式艦上攻撃機

1941年8月には、日本海軍は鹿児島湾の浅い海域での投下によって九一式魚雷の改良を行い、港湾内の艦船を攻撃する戦術を開発した。九七式艦上攻撃機から予想以上に速い160ノット(296km/h)で、水深100フィート(30m)の海底に魚雷をこすらずに雷撃できることが分かった。1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、その戦術を使用して15発以上の魚雷を命中させた。

1942年4月、アドルフ・ヒトラーは、航空魚雷をドイツの優先生産品にした。ドイツ空軍ナチス・ドイツ海軍から生産を引き継いだ[16]。航空魚雷の生産数は1年の使用量を上回り、過剰に生産された航空魚雷は戦争の終結時に引き渡された。1942年から1944年の後半に約4,000発の航空魚雷が使用されたが、戦争中に製造されたのは約10,000発だった[16]。雷撃機はハインケルHe111とユンカースJu 88の改良型だったが、戦闘機フォッケウルフ Fw190も搬送機としてよく使われた[16]

Mk13は米国の主力航空魚雷だったが、1943年のテストで150ノット(280km/h)以上で飛行する航空機から満足に投下できるのは105発中33発だけであることが判明した[14]。その後は日本の九一式魚雷と同様に、Mk13も木製の先端覆いと木製の尾部環を付け、両方とも入水時には脱落するようにした。木製の覆いは、落下中を通じて速度を落とし、目標の方向を維持した。先端の覆いは着水時の運動エネルギーを十分に吸収し、投下可能な航空機の高度と速度を2,400フィート(732m)、410ノット(760km/h)と大幅に増加した[14]

1941年にアメリカは、空中投下できる対潜水艦用で電動の音響ホーミング魚雷Mk24(FIDO)の開発を開始した。イギリスでは、標準の航空魚雷が高速の航空機用に強化されて、Mark XVになり、Mark XVIIになった。艦載機用の炸薬は388ポンド(176kg)のTNTにとどまっていたが、戦争の末期には、より強力なトーペックス432.5ポンド(196.2kg)に増加した[15]

第二次世界大戦中、米国の艦載雷撃機は1,287回の対船攻撃をして、65%は軍艦に対して行い、40%が成功した[7]。しかし、雷撃に必要な低高度・低速の侵入は護衛艦の格好の標的となった。例えばミッドウェー海戦では、ほぼすべてのアメリカの雷撃機が撃墜された[17]

朝鮮戦争

第二次世界大戦後、対空防御は改善し、航空魚雷による攻撃は自殺に等しくなった[18]。軽量な航空魚雷は処分されるか、小型潜水艦での使用に転用した。航空魚雷の唯一で重要な用途は、対潜水艦戦だけになった[18]

朝鮮戦争において、アメリカ海軍は魚雷を航空機から投下してダムを破壊した、最後の通常魚雷による攻撃を実行した。[19]

現代における航空魚雷

P-8から投下され、パラシュートで減速するMK-46魚雷

潜水艦の潜航時間が延びたことや艦艇の対空兵器が進化したことでロケット弾による攻撃が有効性を失ったことから、空対艦ミサイルの登場により航空機が搭載する対艦兵器はミサイルが主流となった。魚雷は固定翼・回転翼哨戒機対潜ミサイルが搭載するが、艦艇に搭載される物と共通化された対潜水艦用の兵器であり、投下後はパラシュートで減速し予定した場所に下向きに着水させる。誘導魚雷のためここから敵潜水艦に向けて向きを変えていく。このため旧来型の航空魚雷は需要がなくなり、新型の開発は途絶えている。

第十雄洋丸事件ではLPG船の撃沈処分のために水上艦、潜水艦、哨戒機が派遣されたが、哨戒機は魚雷を搭載可能であったもののロケット弾対潜爆弾により船体上部に穴を開ける任務を担当している。

アメリカ軍では哨戒機から魚雷を投下する際にできるだけ海面から距離を取れるように、短魚雷のMk54に滑空用の翼と誘導装置を取り付け高高度・長距離投下能力を付与させる、高高度対潜兵器能力 (HAAWC: High Altitude Anti-Submarine Warfare Weapon Capability) の開発を行ってきており[20][21]、高高度対潜兵器能力「HAAWC」のボーイング社とフルレート生産(FRP)契約を結んだ。発射母機は高度を下げずに投下できる航空魚雷システムとなっており、P-8Aの後部ウェポンベイに最大5発が搭載される。

日本の航空魚雷

九一式魚雷

九一式魚雷、1941年11月真珠湾攻撃直前、空母赤城飛行甲板上、背景は択捉島単冠湾

日本の九一式魚雷は、2つの特徴をもっていた。

  • 1936年から、横須賀航空隊八分隊雷撃班の提案による(水中突入時に飛散する)木製空中姿勢安定の「框板」を尾部に装着した(九一式航空魚雷改1)。
  • 1941年春から、ロールを安定制御する角加速度制御安定器を備えた(九一式航空魚雷改2)。この安定器は航空魚雷にとって最大のブレークスルーだった。

これらによって、九一式魚雷は速度 180 ノット(333km/h)、高度66フィート (20m)でも、海底の浅い港湾で発射できるようになっただけでなく、九七式艦上攻撃機の水平最高速度 204 ノット(378 km/h)を超える加速度降下雷撃で波立つ荒れた海でも発射できるようになった。

その他の日本の航空魚雷

九二式魚雷(電池駆動の航空魚雷)は単なる試験的モデル以上のものではなかった。

1934年に艦政本部は、九三式酸素魚雷の航空魚雷型である、独自の九四式魚雷を機密裏に開発していた。しかし、この計画は放棄された。九四式魚雷は重くて取扱いがまったく困難だった。

大戦末期には、総重量が2トンの試製魚雷Mを開発していたが、これは未完成のまま終わった。横須賀空技廠は、1944年春から、4発の陸上攻撃機「連山」用に、重量2トンの巨大な航空魚雷を開発していた。その魚雷は「試製魚雷M」または略式に「2トン魚雷」と呼ばれた。この魚雷は九一式航空魚雷を巨大化したようなもので、直径 21インチ(53.3cm)、全長 23 ft 4-1/4 インチ(7.10m)、全重量は 2,070 kg、炸裂火薬量は 750 kg に達するとされた。[22]

しかし、九一式航空魚雷開発チームのメンバーは、試製魚雷Mを九一式航空魚雷シリーズの一つとはみなしていなかった。この魚雷は日本海軍史上最大の航空魚雷になるはずだったが、雷撃を4発大型機で遠方から行うという戦術コンセプト自体がすでに時代にそぐわなくなっていたので、この魚雷は未完成のまま終わった。

日本海軍航空における雷撃発達史

脚注

関連項目

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