船越景直
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はじめ父とともに守護細川氏に仕えたが、のち安宅冬康、次いで三好長治に属した[1]。
その後、羽柴秀吉に属し、天正10年(1582年)9月5日、所領を安堵された[2]。
翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いに従軍し、同年8月21日に河内国内に替え地を与えられた[2]。
翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し[2]、文禄元年(1592年)の文禄の役では御弓鉄砲衆として175名を率いて肥前国名護屋城に駐屯した[3]。
文禄3年(1594年)3月には摂津国西成郡の検地を行い、翌文禄4年(1595年)正月の秀吉の草津湯治では、堀田盛重と信濃国松本を警衛[2]、また、この頃4,020石余を知行していたが、同年の秀次事件に連座して改易され、南部利直に預けられた[4]。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると赦免され、翌慶長4年(1599年)閏3月3日、五大老の連名で摂津国兎原、豊島、河辺3郡3,860石余、河内国交野郡796石併せて4,647石を加増された[4]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して首級を挙げた[5]。以後は徳川氏に仕え、翌慶長6年(1601年)に大和宇智郡にも1,500石を加増されて6,140石を知行した[5]。
翌年には家康に請われて堀尾吉晴や猪子一時、大島光義らと共に関ヶ原の戦いの話に興じている。
慶長16年(1611年)に死去。享年72。