船遊亭志ん橋

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船遊亭 志ん橋(せんゆうてい しんきょう)は、落語家名跡船遊亭 新橋としても名乗った。


本名笹川 大助
生年月日1866年8月21日
没年月日 (1919-04-26) 1919年4月26日(52歳没)
船遊亭せんゆうてい きょう
本名 笹川 大助
生年月日 1866年8月21日
没年月日 (1919-04-26) 1919年4月26日(52歳没)
師匠 4代目柳亭左楽
7代目桂文治
弟子 5代目土橋亭里う馬
名跡 1.真古亭真生
(1894年 - 1904年)
2.初代桂小文治
(1904年)
3.真古亭真生
(1904年 - 1906年)
4.船遊亭志ん橋
(1906年 - 1914年)
5.船遊亭哥楽[注釈 1]
(1914年 - 1917年)
6.船遊亭志ん橋
(1917年 - 1919年)
活動期間 1894年 - 1919年
活動内容 落語家
配偶者 宝集家金之助

船遊亭 志ん橋(せんゆうてい しんきょう、1866年8月21日慶応2年7月12日[2]) - 1919年4月26日[要出典][注釈 2])は、明治から大正にかけての落語家。本名∶笹川 大助[2]。妻は宝集家金之助[2]

当初は大阪にて「新古亭真生」を名乗って出演していた[2]1894年ごろに上京し、4代目柳亭左楽門下となる[2]

しかし再び大阪に戻って桂派に所属後、1900年11月に浪花三友派に移る[2]。この当時は2代目桂文團治(のちの7代目桂文治)の門下だった[2]

1904年ごろに一時桂小文治を名乗ったものの[注釈 3]、再び新古亭真生に復して帰京した[2]

1906年3月、真打に昇進して船遊亭志ん橋となった[2]。その後も大阪に行って浪花三友派の高座に上がる機会があった[2]1912年8月に三遊亭圓遊[注釈 4]桂小文吾らと「浪花大正派」を結成して9月から興行を打ったものの短期間で終わった[2]

1914年8月船遊亭哥楽[注釈 1]と改名する。しかし「字数が悪い」と姓名判断で言われたため1917年ごろに再度志ん橋となった。[要出典]

人物

大山巌に似ていたことから俗に「大山大将」という[2]芸は多芸で音曲、踊り、自作の阿呆陀羅経などがあった。晩年は噺に精進し同じネタを2度とやらないように勤めたという。[要出典]

脚注

参考資料

関連項目

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