若山勿堂
江戸時代の儒者、兵学者
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生涯
一斎門下の十哲
享和2年(1802年)、阿波国徳島城下の鰻屋に生まれる。名は拯、通称は壮吉。
18歳の時に江戸に至り、昌平坂学問所塾頭を務めた佐藤一斎に儒学を学び、「一斎門下の十哲」と称される。
天保年間になって、佐藤一斎の推薦により、林述斎と佐藤一斎の出身藩である美濃国岩村藩の藩主・松平乗喬に招かれ、藩校・知新館の儒員に任じられ、藩士の子弟を指導する
。
文久3年(1863年)には幕府に召されて昌平坂学問所の儒官(教授)となった[1]。松岡康毅はこの時期の門弟である。昌平黌のみならず松代藩の要請で講義も行い、佐久間象山が「勿堂記」を残している[2][3]。
窪田兵学の高弟
兵学でも重要な実績を残している。高名な兵学者であった旗本・窪田清音(講武所頭取)の高弟として甲州流、越後流、長沼流、山鹿流兵学を学び、山鹿流兵学者としても知られていた[4]。 窪田清音から勿堂へ継承された兵学の学統からは勝海舟、板垣退助[5]、土方久元[6][7] [8]、佐々木高行[9]、谷干城[10][11]、清岡道之助[12][13]、小畑正路[14]ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された[5][15]。
慶応3年(1867年)7月16日、66歳で死去。
学説・逸話
- 若山は「海外互市説」 で、天が生み出す物は、すべての土地に同じように存在するわけではなく、また、すべての土地に存在しないというわけでもない。自分たちにないものを相手が持っていれば、そこから得て自分たちの利益とする。相手にないものを自分たちが持っていれば、相手もそれを得て利益とする。これこそが自然の道理なのである。と論じている。わが国には米や穀物が豊富にあり、その量は外国の百倍にも及ぶ。魚や塩から得られる利益も、至るところに存在する。金・銀・銅・鉄も山や谷に豊富に産出する。しかし、不足しているものもある。その一つが薬である。大黄や甘草など、国外から得なければならないものがあり、私たちの生活に必要なのである。生を好み、死を嫌うのは、生き物に共通する自然の感情である。それは人間以外の生き物であっても変わらない。それにもかかわらず、人々は大海の荒波を越え、危険な海域を進んでまで交易を行おうとすると、人間が命の危険を嫌うことを当然と認めているうえで、それにもかかわらず、厳罰や海上の危険を冒してまで交易する者が絶えない理由を問いかけ、海外貿易の合理性を認めるだけでなく、国家による厳しい交易禁止がかえって密貿易を生み出すという問題まで論じた。産物の違い、生活上の必要、禁令の実効性という順序で議論しており、自然や人間社会の実態を踏まえて政治制度を考える姿勢が認められる[16]。
- 『校刻兵要録』の序では、「胡馬越舟南北各擅其長、合併兼有、其為武則備矣。我東方神靈攸會、土沃人傑、知恥重義、各自為關、初不規於節制法度之末也。其有節制益峯於甲越二氏、然猶頗異焉。齋長沼氏抽孫吳之髓、嚼前成之腴、運之以卑俗之銳、卓成一家言。所著兵要錄、體用完具、本末兼該、或其庶幾矣。夫事與世殊、制與時革。故善學古者師其意、不泥其迹。」「北方には馬を活用した戦い方があり、南方には舟を活用した戦い方がある。それぞれが独自の長所を持っている。それらの長所を合わせて兼ね備えることによって、武備は整うのである。わが日本は、神々の集まる土地であり、土地は豊かで優れた人物を生み出してきた。人々は恥を知り、義を重んじ、それぞれに独自の備えを持っていたが、当初から軍隊の統制や制度を細かく整えていたわけではなかった。やがて甲斐・越後の二氏の時代には、軍隊の統制や組織が発達した。その後、長沼氏は孫子・呉子の兵法の精髄を取り出し、先人たちが成し遂げた成果を吸収して、独自の兵学体系を打ち立てた。その著書『兵要録』は、兵学の根本原理と実際の運用を備え、基本から末端に至るまでを兼ね備えたものである。今回、諸本を比較校訂して世に広く伝えようとする。その志はまことに大きい。しかし、世の中の事情は時代によって変わり、制度も時代に応じて改められる。したがって、古典をよく学ぶ者は、その精神や本質を学ぶのであって、古い形式や外形に拘泥してはならない。この書物から兵学の根本を理解したならば、それを変化させ、自在に応用し、その原理を十分に理解して活用すれば、その応用には限りがない。そうでなければ、古い兵法を暗記しているだけの趙括と同じであり、何の価値があろうか。世の中が変われば事情も変わり、制度も時代に応じて変わる。だから、古典を正しく学ぶ者は、その本質を手本とし、古い形式にとらわれてはならない。変化させて自在に通用させ、原理を十分に理解して用いれば、その応用は尽きることがない。」と、古典兵学を固定された戦術として暗記するのではなく、時代や状況に応じて応用するという明確な思想がある[17]。
- 佐藤一斎の八十歳の誕生日を祝って奉った詩では、「壽之貴乎天下久矣。忠臣不得以獻其君、慈父不得以予其子、總乎天而聽乎數、似不可廣幾而致者也。傳曰大德必得其壽。何也。夫天之生君子、非偶然也。將伸其任斯世之責矣。天保辛丑之歲、一齋藤先生年適七十。子弟請稱壽觴、先生不許。蓋有所避也。且曰、俟吾臻八十未晩也。今歲嘉永辛亥、先生齡正躋八旬、而聰明步履、比之於十年之前無異也。嗚呼何其壯也。為一世泰斗、掌教於國學、而多士景從焉。王公大人爭而師尊之、往往問焉。而及其國事、則其有補於斯世者、蓋不尠矣。」「長寿が世の中で尊ばれてきたのは、昔からのことである。しかし、忠臣であっても自分の主君に寿命を差し上げることはできず、慈愛深い父親であっても、自分の子供に寿命を与えることはできない。寿命は天の定めに属し、人間の願いだけで得られるものではない。古い教えには『大きな徳を備えた人は、必ず長寿を得る』という。これはなぜだろうか。そもそも天が優れた君子をこの世に生み出すのは、偶然ではない。その人物に、この世で果たすべき責任を十分に遂行させようとするからである。天保辛丑の年(1841年)、一斎先生はちょうど七十歳になられた。弟子たちが長寿を祝う宴を開きたいと願い出たが、先生はお許しにならなかった。何か遠慮されるところがあったのであろう。そして『私が八十歳になってからでも遅くはない』とおっしゃった。それから十年が過ぎ、嘉永辛亥の年(1851年)、先生はついに八十歳を迎えられた。その聡明さも歩く姿も、十年前と少しも変わらない。ああ、なんと壮健なことであろうか。先生は当代第一級の大学者であり、幕府の学問所で教育をつかさどられた。多くの学問を志す者たちが先生を慕って集まった。王侯や高位の人々も争うように先生を師として尊敬し、折に触れて教えを求めた。また国政に関しても、先生が世の中に貢献したところは、決して少なくなかったのである。」と、佐藤一斎を、単に儒学の知識に優れた先生としてだけでなく、国政や社会の問題に関わり、現実の世の中に貢献する学者として高く評価した[18]。
- 若山は自分が学問を講じ、書物を読む場所として「勿堂」という名前をつけた。友人の佐久間象山がこれを見て「これは孔子の教えである『四勿』(『論語』顔淵篇の孔子と顔回の問答に由来する「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」から取った名前なのか。」と尋ねた。「四勿」とは、「礼にかなわないものは見ず、聞かず、言わず、行わない」という意味で、若山は、この四つの「勿」を自分の学問の場の名称に採用していた。「そもそも天理と人欲とは、一方が強くなれば他方が弱くなる関係にある。私心や長年の習慣によって生じた悪い性向を克服すれば、人間が本来備えている完全な徳を取り戻すことができる。これは確かに、学問を志す者が常に自分を戒め、省みなければならないことである。」象山は、まず四勿の教えが重要であることを認め、その後に鋭い批判を加える。「ところが近頃の若い学者たちは、少しばかり書物を暗記し、文字の意味を説明できるようになると、すぐにこの教えを口にする。しかし、学問には順序を踏んで精密に究めていくことが必要だということを、まったく理解していない。」とし、「したがって、礼に反するものを見ず、聞かず、言わず、行わないためには、天理と人欲を見分けることが肝要である。天理と人欲を見分けるためには、明晰な知性と強い決断力を養わなければならない。」さらに象山は、「及質其所謂非禮、則未有不逡巡而拑口者矣」「では、彼らがいう『礼にかなわないこと』とは具体的に何なのかと問いただせば、誰もがためらい、口をつぐんでしまう。」と、象山は、儒学の言葉を知っていることと、その言葉の意味を具体的な現実の中で判断できることは、まったく別であると指摘する。「その土地の山や川がどのようにつながり、道路がどのように曲がりくねり、町や村がどれほど広く、土地の肥沃さや人口の多少がどうなっているか。草鞋を履いて実際に荒れた土地まで踏み込んで調べた者でさえ、なお見聞に漏れがあるものだ。」「まして、自分で実際に経験することもなく、すべてを知り尽くしたという者など、私は聞いたことがない。」象山は、学問を現実の具体的な事象に即して考える必要を説き、しかも、山川、道路、集落、土地の豊かさ、人口といった項目を挙げる。「天下の物事には、本当は礼に反しているのに、礼にかなっているように見えるものがある。反対に、本当は礼にかなっているのに、礼に反しているように見えるものもある。また、ある時には礼にかなっていても、いつも同じように行えば礼に反することもある。普段は礼にかなっていることであっても、特別な場合には礼に反することもある。」「だから、格物窮理を十分に行わずに、ただ明晰な知性と強い決断力だけを求める者は、愚かである。明晰な知性と強い決断力を身につけないまま、天理と人欲を見分けようとする者は、妄りである。天理と人欲を見分けることもできないまま、ただ礼に反するものを見ず、聞かず、言わず、行わないようにしようとする者は、混乱しているのである。そして、明晰な知性と強い決断力を養うための根本は、格物窮理にあるのである。」と述べた。若山は、「ああ、まさしくそれこそが、私の志しているところなのです。あなたは私の志を理解してくださった。どうか、そのことを書き記して、この堂の記としていただきたい。」と答えたという。象山は若山の書斎名「勿堂」を批判して別の名前に改めさせようとしているのではなく、その名称に込められた学問の理想を、さらに深く説明し、若山は象山の解釈を、自分の志と一致するものとして受け入れていた。佐久間象山はこれを「勿堂記」として残した[19]。
著作
- 「論語私記」[20]
系譜
参考文献
- 若山勿堂『勿堂先生災余文稿』,斎藤緘写,文久元年
- 若山勿堂『勿堂先生文稿』,文久1 (1861年)
- 石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版)
- 石岡久夫「山鹿素行兵法学の史的研究」(玉川大学)
- 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
- 高瀬代次郎「佐藤一斎と其の門人」(南陽堂書店)
- 眞壁仁「徳川後期の学問と政治: 昌平坂学問所儒者と幕末外交変容」(名古屋大学出版会)
- 伊藤信「濃飛文教史: 先哲の業績を主としたる」
- 平尾道雄 著『青年の風雪』(高知新聞社)
- 高知市教育会『土佐の偉人と名勝』
- 萩原正太郎『勤王烈士伝』頒功社