苻融
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伯父の苻健の時期に、陽平公に封ぜられる。兄の苻堅の時期になって、漢族の王猛が丞相に昇格すると、その後任として冀州牧として赴任する。彼は兄の苻堅からの信頼が篤く、冀州全域を統括しその秩序を保った。また、優れた統率力で将兵の信望を得たという。
建元11年(375年)に王猛が病没したために、長安に召還され、侍中・中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事などを歴任。同時に、兄の苻堅の寵妃の張夫人と甥の中山公苻詵と僧侶の釈道安と共に東晋に遠征しないように懸命に諫言を繰り返したが聞き容れられなかった[2]。
建元19年(383年)の淝水の戦いでは、彼は征南大将軍に任じられて、先鋒隊として20万の兵を率いて、東晋の寿春を攻略した。やがて、兄が率いる本隊が到着して、東晋と決戦に臨んだ。だが、かつて東晋の梁州刺史だった降将の朱序が「秦の大敗北ぞ!大敗北ぞ!」と突如叫んで、再び東晋に帰参して前秦を裏切って苻堅の本隊を襲撃。同時に東晋本隊の攻撃を受けたため、前秦軍は総崩れとなり、苻融は兄と共に敗走するがその最中に戦死した。