草刈衡継 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 不詳死没 永禄12年6月12日(1569年7月25日)別名 草苅平継通称:三郎左衛門尉 凡例草苅衡継時代 戦国時代生誕 不詳死没 永禄12年6月12日(1569年7月25日)別名 草苅平継通称:三郎左衛門尉官位 従五位下、加賀守主君 毛利元就氏族 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流 草苅氏父母 父:草苅景継、母:三吉豊高の娘妻 正室:黒岩吉弘の娘継室:山名兵庫頭の娘子 景継、重継、重久、女(三吉隆勝室)、女(草苅盛雅室)、女(小瀬広勝室)テンプレートを表示 草苅 衡継(くさかり ひらつぐ)は、戦国時代の武将。草苅氏は因幡国の淀山城を本拠とする国人で、衡継の代に美作国へ移り住んだ。山名氏、毛利氏に属する。父は草苅景継 (伊賀守)、子に景継、重継。 因幡国の国人・草苅景継(伊賀守)の子として生まれる。 享禄2年(1529年)に父・景継が死去し、家督を継ぐ。山名氏に属して出雲国の尼子経久と度々戦い、山名氏の旧領である因幡国の気多郡と岩井郡を取り返した。 天文元年(1532年)、備前国の浦上村宗・宗景父子と戦って美作国の東北条郡や西北条郡を切り取り、天文2年(1533年)に美作国東北条郡に美作高山城(矢筈城)を築き移り住んだ。[1]天文5年(1536年)には美作国の英田郡と吉野郡を勢力下に置いた。 草苅氏は父祖以来山名氏に属し、衡継も多くの武功を挙げてきたが、それらの功がかえって警戒を招き、遂には衡継を討とうとするに至った。ここに至って衡継は山名氏から離反。山名氏と戦って因幡国の八束郡と岩井郡を勢力下に置いたが、後に将軍・足利義輝の調停により、衡継は山名氏と和睦した。 天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけての大内義隆の出雲攻めを契機として、衡継は毛利元就に属するようになり、天文13年(1544年)1月10日に衡継は従五位下に叙せられた[注 1]。 その後、浦上氏家臣の宇喜多直家と度々戦い、天文23年(1554年)には美作国の大庭郡と真島郡を勢力下に置く。 永禄2年(1559年)に嫡男の景継へ家督を譲って隠居し、永禄12年(1569年)6月12日に死去した。 脚注 出典 ↑ “矢筈城 | 岡山県北の生活情報 アットタウンWEBマガジン”. 2019年3月12日閲覧。 注釈 ↑ この時の口宣案の上卿は中納言・日野資定、奉者は蔵人左中弁兼近江権介・藤原国光。 参考文献 『萩藩閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」、巻113「草苅六左衛門」 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』(マツノ書店、1999年復刻) Related Articles