草垣 (海防艦)
御蔵型海防艦
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草垣(くさがき)は[1]、日本海軍の海防艦[2]。艦名は鹿児島県の草垣郡島にちなむ。
| 草垣 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 建造所 | 日本鋼管鶴見造船所 |
| 運用者 |
|
| 艦種 | 海防艦 |
| 級名 | 御蔵型海防艦 |
| 建造費 | 5,112,000円(予算成立時の価格)[注 1] |
| 艦歴 | |
| 計画 | マル急計画 |
| 起工 | 1943年9月7日 |
| 進水 | 1944年1月22日 |
| 竣工 | 1944年5月31日 |
| 最期 | 1944年8月7日被雷沈没 |
| 除籍 | 1944年10月10日 |
| 要目(竣工時) | |
| 基準排水量 | 940トン |
| 全長 | 78.77m |
| 最大幅 | 9.10m |
| 吃水 | 3.05m |
| 主機 | 艦本式22号10型ディーゼル2基 |
| 出力 | 4,200hp |
| 推進 | 2軸 |
| 速力 | 19.5ノット |
| 燃料 | 重油 120トン |
| 航続距離 | 16ノットで5,000カイリ |
| 乗員 | 定員149名[注 2] |
| 兵装 |
45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基 25mm機銃 連装2基 九四式爆雷投射機2基 爆雷120個 単艦式大掃海具1組 |
| 搭載艇 | 短艇3隻 |
| レーダー | 22号電探1基 |
| ソナー |
九三式水中聴音機1基 九三式水中探信儀1基 |
概要
草垣(くさがき)は、日本海軍が太平洋戦争で運用した海防艦で、御蔵型海防艦の8番艦[3][4]。日本鋼管鶴見造船所で建造され、1944年(昭和19年)5月31日に竣工した[5]。 呉防備戦隊で訓練をおこなったあと、7月1日付で第一海上護衛隊に編入された[6][7]。北九州門司からフィリピンに向かう船団の護衛が、草垣の初任務であった[8][9]。7月下旬、ヒ68船団を護衛してマニラを出発し、台湾高雄市で分離した[10]。 同時期に敵潜水艦掃蕩隊が新編されると[11]、海防艦2隻(草垣、松輪)は第三掃蕩小隊に所属した[12]。 その後、草垣と松輪はミ13船団の護衛に加わる(門司発、高雄経由、ミリ行き)[13]。 同船団を護衛中の8月7日、草垣は[14][15]、マニラ西方で[16]、アメリカ軍潜水艦ギターロの魚雷攻撃により沈没した[2]。
艦歴
竣工まで
マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の25番艦[注 3]、仮称艦名第334号艦として計画。1942年2月14日、海防艦乙型の基本計画(基本計画番号E20)が決定したため、それに従って建造されることとなった。当初は第322号艦型となっていたが、後に予定を繰り上げて第320号艦を第1艦とした第320号艦型に改められた。
1943年(昭和18年)9月7日、日本鋼管鶴見造船所で起工。 同年10月1日、草垣と命名される[1]。同日附で命名された各艦は艦艇類別等級に登録され、草垣は御蔵型海防艦に類別された[4]。
1944年(昭和19年)1月22日、草垣は進水した。3月1日、第六五三海軍航空隊通信長の尾崎隆少佐は、草垣艤装員長に任命される[17]。 3月15日、鶴見造船所に設置された草垣艤装員事務所は、事務を開始する[18]。 5月31日、草垣は竣工した[19]。尾崎少佐は草垣海防艦長となった[20]。同日附で、艤装員事務所を撤去する[21]。 本籍を舞鶴鎮守府と定められる[22][23]。3隻(草垣、第二十六号海防艦、第二十八号海防艦)は警備海防艦に指定された[23]。各艦は呉防備戦隊に編入される[24]。
竣工後
1944年(昭和19年)5月31日の竣工後、草垣は呉鎮守府麾下の呉防備戦隊に所属し[19]、対潜訓練に従事した[25]。6月5日、占守型海防艦と御蔵型海防艦の類別が変更され、草垣のまえに御蔵型海防艦として日振と大東が追加された[26]。 7月1日[2]、草垣は呉防備戦隊から除かれる[27][28]。海上護衛総司令部隷下の第一海上護衛隊に編入された[7][28]。当時の草垣乗員数は、合計170名であった[29]。
7月6日、モマ02船団の加入船舶15隻を、草垣、第一号海防艦、第二十二号海防艦、第34号掃海艇、駆逐艦初霜[注 4]で護衛し、北九州門司を出撃した[8]。7月13日、モマ02船団部隊は台湾高雄市に到着した[8]。
7月14日、タマ21C船団の加入船舶20隻(一部資料では21隻)[31]を、草垣ふくめ護衛艦艇7隻(一部資料では8隻)[31]で護衛し[注 5]、フィリピンにむけて高雄市を出発した[9]。この船団部隊を、アメリカ軍潜水艦4隻(ピラーニャ、ガードフィッシュ、スレッシャー、アポゴン)から成るウルフパックが襲撃した。 しあとる丸[31][32]、西寧丸、祥山丸、仁山丸、満泰丸、日山丸が沈没する[9][33]。救難のため、マニラより駆逐艦春風と海防艦御蔵が出撃し、タマ21C船団部隊に合流した[34]。 19日、タマ21C船団部隊はルソン島のマニラに到着した[9]。
7月20日、内地からシンガポールに向かうヒ69船団部隊と[35][注 6]、シンガポールから内地へ戻るヒ68船団部隊が[41]、同日中にマニラに到着した[42][10][注 7]。 2つの船団部隊の編成替がおこなわれ、空母2隻(大鷹、海鷹)などがヒ69船団から除かれる[45]。草垣はヒ68船団部隊に編入される[10][注 8]。
7月23日、第八護衛船団司令部(司令官佐藤勉少将[49]、旗艦「平戸」)[50]が率いるヒ68船団部隊(護衛隊〈平戸、倉橋、草垣、御蔵、第十一号海防艦、第二十号海防艦、水雷艇鵯〉、空母大鷹を含む加入船舶14隻)[注 9]はマニラを出発した[10][52]。 26日、アメリカ軍潜水艦3隻(アングラー、フラッシャー、クレヴァル)のウルフパックは、ヒ68船団部隊を襲撃する。 東山丸[53]、 安芸丸[54]、 大鳥山丸が沈没[33][55]。特設運送艦聖川丸が損傷した[56]。草垣は東山丸の、御蔵は聖川丸の、監視もしくは護衛を命じられた[57]。 27日、ヒ68船団部隊は台湾高雄に寄港した[10][58]。ここで草垣はヒ68船団部隊から除かれた[注 10]。
この頃、ルソン海峡の敵潜水艦撃滅をめざして「敵潜水艦掃蕩隊」が編成され[11]、尾崎少佐(草垣艦長)は第三掃蕩小隊(草垣、松輪)を指揮することになった[12]。 8月4日、ミ13船団部隊(7月24日門司発[60]。護衛艦艇〈草垣、松輪、屋代、朝風、第38号哨戒艇、第18号掃海艇など〉、加入船舶約20隻)はボルネオ島西部のミリをめざして高雄市を出発した[15][13]。8月7日朝、ミ13船団部隊に対し北緯16度27分 東経117度18分地点で敵潜水艦の襲撃があり[注 11]、護衛艦艇は対潜掃蕩をおこなう[13]。すると、今度はアメリカ軍潜水艦ギターロがミ13船団部隊を襲ってきた[注 12]。 同日22時05分、ギターロの雷撃により[19]、草垣に魚雷複数本が命中[16]。北緯14度50分 東経119度57.5分地点で沈没した[63]。戦死者97名[64]。 第三掃蕩小隊は佐渡艦長指揮下の海防艦4隻(択捉、松輪、佐渡、日振)で再編された[65][注 13]。
草垣と日振[注 14]は10月10日をもって、御蔵型海防艦[69]、 帝国海防艦籍[70]のそれぞれから除籍された。
草垣海防艦長の尾崎少佐は横須賀鎮守府付となった後[71]、9月25日付で敷設艦八重山艦長を命じられたが[72]、同艦は9月24日に空襲で沈没したため[73]、第三南遣艦隊司令部付となった[74]。その後、尾崎少佐は10月10日付で敷設艦初鷹艦長となった[75]。