草鹿丁卯次郎

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草鹿 丁卯次郎(くさか ちょうじろう、1867年3月7日慶応3年2月2日) - 1931年昭和6年)4月24日[1])は、日本の学者、実業家。現在の石川県加賀市大聖寺出身。加賀国大聖寺藩藩医(禄高:150石)・草鹿泰冲(蓮浦)の次男。兄は草鹿甲子太郎衆議院議員弁護士、神戸日華実業協会理事長)。子息については後節を参照。

学者・研究者として

大聖寺小学校(現・加賀市立錦城小学校[2])を経て、金沢一中を[要検証]卒業。1884年(明治17年)に東京外国語学校(現・東京外国語大学)を卒業し、翌年東京にて学習院助教授を務めたがその後ドイツに留学、1887年(明治20年)に留学先のイェーナ大学を卒業し、哲学の学位を取得している[1]

帰国後は独逸協会学校(現・獨協大学)講師、山口高等学校(現・山口大学)教務嘱託となる[1]。1898年(明治31年)に金沢に戻って第四高等学校にてドイツ語[要出典]講師となる[1][3]。その後実業界に転じ、1901年(明治34年)には旧鴻池銀行金沢支店長を務めた[3]。1903年(明治36年)には、同郷であり後に住友財閥総理事となる小倉正恒および鈴木馬左也からの推薦により[要出典]住友財閥(住友家)に迎えられ、住友本社理事[要出典]住友倉庫常務総支配人、住友銀行監査役などを務めた[3]。丁卯次郎が入った頃の住友家の家長は西園寺公望の弟で西園寺家から養子に入った住友友純(住友吉左衛門/住友春翠)、総理事は住友財閥の基礎を作った伊庭貞剛であった。丁卯次郎は後年実質的に住友家の番頭格となり、住友友純(春翠)の側近となっている[要出典]

戒名は「南東院清風宗園居士」、墓所は京都妙心寺塔頭の仙壽院(非公開)にある[要出典]

イェーナ大学在学中にカール・マルクスの『資本論』を知り、これを日本に紹介した。ただし、丁卯次郎本人は共産主義社会主義に傾倒していたわけではない。[要出典]

著書に辞書『獨話會話編』(須原鐡二発行、1886年(明治19年))、編著に『欧米各国株式会社要解』(博文館、1896年(明治29年))[4]論文「Das Japanische Geldwesen (日本の通貨制度)」(Verlag von R.L. Prager, Berlin発行 1890年(明治23年))[要出典]がある。また、訳書として、グスターフ・シェーンベルヒ『工業的労働者問題」(経濟雑誌社、1902年(明治35年)、依田昌言との共訳)、フォン・コスタネッキ『倉庫證券論』(住友倉庫(編)、吉川弘文館、 1905年(明治38年))がある[1]。このほか、1892年(明治25年)頃から『国家学会雑誌』に社会問題やマルクス、フェルディナント・ラッサールについて執筆した[1]

交友関係

香川善治郎山岡鉄舟の弟子であり、鉄舟が開祖の一刀正伝無刀流の師範である。第四高等学校で剣道師範を務め、この間丁卯次郎と親交が生まれている。後に香川は金沢出身の総理事鈴木馬左也や丁卯次郎らの招聘によって、住友道場剣道師範として住友財閥に迎えられた。丁卯次郎自身も鈴木とともに稽古に励んだが、息子のうち特に龍之介と浅之介を香川に師事させ、龍之介は後に一刀世伝無刀流第四代を継いでいる。当時の住友財閥は石川県出身者を多く起用しており、前田家とも深い関係にあった。

西田幾多郎とは第四高等学校時代に親しくなり、交友は両者が関西に拠点を移した(西田は京都帝国大学教授となる)後も続いた。

住友時代は、大阪北畠(現・阿倍野区内)に邸宅を構え邸内の書院を「南東軒」と称し、前記の香川善次郎、西田幾多郎、鈴木大拙など多くの友人が訪れて親交を温めた。また、次男浅之介の第一高等学校における親友だった尾崎秀実も学生当時台湾への帰省途中にこの丁卯次郎邸に立ち寄っている。

家系・家族

脚注

参考文献

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