荊州
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先秦時代
漢代
魏晋南北朝時代
208年(建安13年)の赤壁の戦い後、荊州は北部の南陽郡及び南郡は曹操、中南部は劉備及び孫権により領有された。曹操は南郡・南陽郡を分割して襄陽郡・南郷郡を設置した。南郡・零陵・武陵は劉備に、江夏・桂陽・長沙は孫権に、南陽・襄陽・南郷の各郡は曹操により領有され、それぞれが3郡を支配したことより「荊襄九郡」と称されることとなった。210年(建安15年)、孫権が北部の長沙郡を分割して漢昌郡とした。
219年(建安24年)、荊州牧であった劉備の守将の関羽が曹操・孫権により滅ぼされると荊州は曹操と孫権により二分割された。三国時代、魏の荊州は南陽郡・江夏郡・襄陽郡・南郷郡・新城郡・上庸郡・魏興郡の7郡を管轄し、呉の荊州は南郡・江夏郡・長沙郡・湘東郡・桂陽郡・臨賀郡・零陵郡・衡陽郡・武陵郡・建平郡・宜都郡の11郡を管轄した。221年(黄初2年)、孫権は公安より鄂に遷都して武昌と改名し、武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羡の6県にて武昌郡とした。229年(黄龍元年)、漢昌郡を廃止した。
西晋が成立すると、荊州は江陵に州治が置かれ、下部に22郡169県を管轄した。
南北朝時代になると、州数は増加傾向があったが、その管轄区域は縮小している。南朝宋は荊州の州治を襄陽としたが、南朝斉により江陵に移された。北魏により穣県に荊州が置かれた。
