荘司雅子
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広島での被爆
日本統治下の台湾、現在の嘉義県朴子市の生まれで、旧名は荘嫌(そう けん)、のちに荘無嫌(そう ぶけん)に改名[1]。奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業後、広島文理科大学(現広島大学)教育学科に進学。そこで、ペスタロッチ研究者として知られる長田新に師事。フリードリヒ・フレーベルと幼稚園教育学を研究テーマに選ぶ。
卒業後、広島大学で助手、講師、助教授を経て、教授となる。1953年「フレーベル研究」で日本では女性で最初の文学博士の学位を取得。定年退職後、聖和女子大学(その後聖和大学、現関西学院大学教育学部)の教授などを務めた。1981年勲三等瑞宝章受章。また、晩年は、体の衰えで車椅子の生活を余儀なくされていたが、その障害をおして日本保育学会、日本ペスタロッチー・フレーベル学会の会長も勤めた。ドイツのイェーナ大学からはフレーベル研究でシラー賞を授与されている。
彼女の業績は、主著の『フレーベル研究』と『フレーベルの教育学』のほか、玉川大学の小原国芳との共同による『フレーベル全集』の監訳がある。また看護、福祉、心理で話題になる発達課題につき、その提唱者ロバート・J・ハヴィガーストの著書を昭和20年代にいち早く邦訳紹介したのも彼女である。現在出ているその本は、復刊されたものである。
生涯独身であり、養女の安子がいたが、2010年に逝去。 フレーベル教育学の研究者で常磐会学園大学国際こども教育学部教授・荘司泰弘は甥。
広島文理科大で助手を務めていた[2]1945年8月6日、米軍による広島市への原爆投下で被爆した[3][4]。妹で、荘司を頼って広島に滞在して被爆した荘司富子(荘來富)は戦後、台湾へ帰った後も原爆症とみられる症状に苦しんで1963年に再来日し、被爆者健康手帳を取得。海外に住む被爆者(在外被爆者)としては手帳取得第1号となった[5][6]。