荻洲立兵
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愛知県出身[1][2][3]。伊藤松左衛門の四男として生まれ、陸軍二等薬剤官・荻洲郁次郎の養子となる[1]。愛知一中、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)を卒業。翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第6連隊補充隊付となる[1][4]。参謀本部付勤務などを経て、1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1][3]。
歩兵第6連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官、スイス駐在、ドイツ駐在、陸大教官、近衛歩兵第4連隊付、歩兵第44連隊長、第11師団司令部付(支那政府応聘、北京陸大教官)、第1師団司令部付、留守第9師団参謀長、第1師団参謀長などを歴任し、1933年10月、陸軍少将に進級[1][3]。
歩兵第9旅団長、台湾軍参謀長などを歴任し、1937年3月、陸軍中将に昇進し第2師団司令部付となる[1][2][3]。留守第2師団長、次いで9月10日に第13師団長に任じられて第二次上海事変、そしてその後の南京攻略戦に参加している。
1939年8月1日に初代第6軍司令官となりノモンハン事件に出動[1][2][3]。停戦後、麾下の第23師団長小松原道太郎中将が、敗戦の原因を第23師団捜索隊の井置栄一中佐と第8国境守備隊の長谷部理叡大佐の無断撤退にあると考え、その廉で両者を自決させた際には荻洲もこれに同意していたとみられ、とくに井置の処分については、井置が撤退してきたときに荻洲と井置に口論があったことで、荻洲の意向が強く反映したのではないかとする見方も強い[5][6]。小松原が帰国後ともかくも姫路に住む井置の遺族を弔問に訪れたのに対し、その後、荻洲が姫路に来たと聞いた井置の未亡人が子を連れて事情を聞きに訪れたときにも、荻洲は副官を出して遺族らに会おうともしなかった[5]。辻政信によれば、8月下旬のノモンハンでの戦闘で小松原師団長は、戦場に残っている他部隊の救援のために直率部隊1500名を率いて出撃したが、荻洲は、作戦中止の決定後、小松原が死んでくれることを希望していると言っていたといい、辻の反対のおかげかどうか、どうにか小松原の部隊にも撤退の指示が出された為、小松原とともに1000名ほどの将兵が敵中突破の形ながら死地から生還できたという[7][8][9]。
ノモンハン事件後、参謀本部付となり、1940年1月、予備役に編入された[1][2][3]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[10]。
終戦後は東京・渋谷の道玄坂百貨街で運動用品店を営む[11][12]。この頃のエピソードとして、漫画家の水木しげるが魚屋をはじめる際に、「突撃あるのみ」と叱咤激励したというものがある[13]。1949年12月22日死去。享年65。墓所は青山霊園(1イ5-20)。