荻須高徳
1901-1986, 大正~昭和期の洋画家
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経歴
1901年(明治34年)11月30日、愛知県中島郡千代田村井堀(現在の稲沢市井堀町)に生まれる。父福次郎、母こうも2男2女の次男。父は代々地主を継ぎ、書画骨董を好む[3]。1908年(明治41年)4月、千代田尋常小学校(現・稲沢市立千代田小学校)に入学、生家に近い井堀分校に通う。すでに絵を描くことに熱中する[3]。1912年(明治45年)、5年生になって本校に通うようになるが、2キロの通学距離は生来の病身に負担が大きく欠席して家で絵を描く日が多くなる。家族や近所の人の顔、桑畑、田圃道などを題材とする[3]。1914年(大正3年)4月、尋常科を終え高等科にすすむ。このとし第一次世界大戦勃発[3]。
1916年(大正5年)4月、愛知県立第三中学校(現在の愛知県立津島高等学校)に入学。8キロの道のりを自転車通学するうちに健康となり、5年間を無欠席でとおす。通学の途次は水郷風景や、川、堤等、四季の変化に富む風景で絵心を育む[3]。1918年(大正7年)1月、東京美術学校黒田教室卒業後間もない大橋貞一が第三中学校に赴任、長髭にあごひげを蓄え、校庭に画架を立てて油絵を描く姿に憧憬を抱く。剣道も得意となり、対抗試合にも出るようになる。これは美術学校時代にもつづけられる[3]。1920年(大正9年)8月、5年生の夏休みのとき、近郷の帝大生何某のすすめにより、また折りから帰郷中の東京在住の叔父治一が親代りとなって東京での生活を引き受けたことから、東京美術学校受験を父に許される。叔父は当時もっともハイカラな西洋料理店三縁亭(芝・増上寺裏)の支配人。荻須の在京中はもちろん渡仏後も援助を惜しまない[3]。
学生時代
1921年(大正10年)、愛知県立第三中学校を卒業。中学時代の美術教諭の影響で画家になることを決意[4]。東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験するが失敗し、藤島武二の指導する川端画学校で1年間受験準備に専念する[5]。1922年(大正11年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学[1]。同級に、猪熊弦一郎、牛島憲之、小磯良平、加山四郎、高野三三男らがいる[6]。1927年(昭和2年)同校卒業、同年10月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、交友関係は佐伯の死まで続いた[5]。美術学校の費用や渡仏の費用は東京のレストランで支配人をしていたおじの援助を受けていた[4]。
渡仏後

荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクやユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。[要出典]
荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。1936年(昭和11年)サロン・ドートンヌ会員に推挙され[1]、フランスでの地位を確立したかに見えたが、1939年(昭和14年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる[1]。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった[1]。帰国後は新制作派協会の会員となる[1]。
戦後
宝石商のバッサンジェーや美術評論家のセッシェの協力により、戦後の1948年(昭和23年)10月にはパリに向かうために日本を離れた[7]。日本人画家として戦後に渡仏するのは荻須が初である[7]。
以後死去するまでパリで制作活動を行うことになる[1]。1965年(昭和40年)には16年ぶりに日本に帰国した[8]。美術評論家の小川正隆によると、1968年(昭和43年)時点のパリには300人から400人の美術家がおり、荻須、版画家の長谷川潔や浜口陽三が別格であるとしている[9][10]。
1981年(昭和56年)3月、フランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユの発行を決定し、1982年(昭和57年)には彫刻家のルネ・コラマリーニが制作したメダイユが発行された[11]。後にフランス大統領となるジャック・シラクパリ市長は、荻須のことを「最もフランス的な日本人」と評した[要出典]。同年文化功労者に選定され[1]、10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となった。帰国の際に出身地である稲沢市を訪問し、稲沢市荻須記念美術館の建設地を訪れている。
1967年(昭和42年)、66歳になってからリトグラフの制作を始め、にじみやかすれといった東洋の墨の表現を連想させる作品を残す。油彩画では東洋的な表現を行うことがなかったことから、リトグラフでしか生み出せない新しい表現方法を追求したと考えられる。当初は単色の黒、モノクロ表現から制作を開始し、1970年代より次第に鮮やかな色彩が加わったカラーリトグラフの制作を行うようになる[12]。
1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去[1]、84歳だった。死の一週間前ほど前に文化勲章受章が内定していたため、11月3日には死去日に遡って同章が追贈された[1]。墓はパリのモンマルトル墓地にある。
上杜会
1922年(大正11年)の東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科入学生は、荻須以外に猪熊弦一郎、牛島憲之(文化功労者、文化勲章)、岡田謙三、小磯良平(文化功労者、文化勲章)、中西利雄、山口長男、高野三三男、加山四郎、藤岡一、大月源二、永田一脩、小堀四郎、青山龍水、嶋野重之らがおり、特に俊英揃いだったとされる[13]。なお、1924年(大正13年)には岡田が中退して渡仏し、1926年(大正15年)には猪熊が健康状態の問題で退学している[13]。1927年(昭和2年)3月の卒業時、西洋画科の教授としては長原孝太郎、藤島武二、岡田三郎助、和田英作、小林萬吾がいた[14]。
1927年(昭和2年)の卒業生は中退した者も含めて「上杜会」を結成し、同年に第1回展を開催した。名称は上野の森に因んでいる[15]。その後も、戦前には日本橋の丸善、上野の東京府美術館、銀座の日動画廊などでグループ展を開催している。戦後には展覧会が途絶えていたが、1976年(昭和51年)には銀座の日動サロンで50周年記念展を開催した[15]。1990年(平成2年)には稲沢市荻須記念美術館と秋田市立千秋美術館において、荻須、猪熊、牛島、岡田、小磯、中西、山口の7人による「絵画による同窓会展」が開催された[13]。
主な作品

油彩画
- 『広告塔』(1928)
- 『ヴェネツィア』(1937)
- 『サン・タンドレ・デザール広場』(1938)(ポンピドゥーセンター所蔵)
- 『モンマルトル裏』(1940)(東京国立近代美術館収蔵)
- 『パリの屋根』(1950)
- 『ヴェネツィア・リアルト』(1960)
- 『金のかたつむり』(1978)(稲沢市荻須記念美術館収蔵)
リトグラフ
- 『ムフタール通り』(1968)
- 『サン・ノヴール通り』(1968)
- 『リベラル・ブリュアンの館』(1968)
- 『門』(1969)
- 『ア・ラ・グリーユ』(1970)
- 『黄色いガレージ』(1970)
- 『小運河』(1972)
水彩画
- 『ヴェネツィア・サン・ロッコ』(1937)
- 『アトリエの窓』(1949)
- 『シャンティー城』(1954)
素描
- 『モンマルトル』(1979)
- 『パリの街』(1979)
- 『サン・ミッシェル河岸』(1979)
- 『パリの下町』(1979)