華温琪

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華 温琪(か おんき、862年 - 936年)は、末から五代十国時代にかけての官僚軍人は徳潤。本貫宋州下邑県[1][2]

成長すると、身長7尺あまりとなった。唐の広明元年(880年)、黄巣に従って紀綱となった。黄巣が長安を陥落させると、温琪は供奉都知に任じられた。黄巣が敗れると、温琪は滑州に逃亡した。容貌魁偉で世に容れられないことを恐れ、白馬県黄河の下流に身を投じたが、まもなく浅瀬に浮き上がって、旅人に命を救われた。また桑の木に登って首をくくろうとしたが、枝が折れて地に落ち、死ねなかった。夜に胙城県の境にいたり、田父の家に匿われた[1][2]

一カ年あまりして、朱全忠の将の朱友裕濮州刺史となり、勇士を募集すると、温琪は赴いて朱友裕を頼った。朱友裕により小校とされ、馬軍都将に昇進した。朱友裕に従って秦宗権曹州の南で攻撃した。功績を挙げて、検校太子賓客を加えられ、朱全忠により開道指揮使に抜擢され、検校工部尚書を加えられ、鄜畤に駐屯した。延州胡璋が叛き、州境に進攻してくると、温琪はこれを撃退した。ほどなく勅命を受けて長安に陣営を張り、功により絳州刺史に任じられた。一カ年あまりして、棣州刺史に転じた。棣州の州城は毎年河水の氾濫により破壊されており、住民が負担に耐えかねていたため、温琪は便のよい地に州城を移したいと上表し、朝廷に許可された。工事が完了すると、紀功碑を立てられた。検校尚書左僕射を加えられ、相次いで斉州節度使・晋州節度使を歴任した。温琪が晋州に駐屯していたとき、晋王李存勗が兵を率いて晋州を攻撃したが、温琪は翌月になっても降らなかった。晋州に定昌軍節度が置かれると、温琪は定昌軍節度使となり、検校太保を加えられた。失政があり、人妻をさらったと訴えられて、罷免された。入朝して左金吾衛大将軍となった。後梁の末帝に責められて恥じ入った[3][2]貞明3年(917年)、右龍虎軍統軍に転じた[4]。河中節度使の朱友謙が反乱を起こすと、温琪は汝州防禦使・河中行営排陣使に任じられた[5][2]龍徳元年(921年)、静勝軍節度留後となった[6]

同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が洛陽に入ると、温琪は入朝した。静勝軍が順義軍と改称されると、温琪は順義軍節度使となり、推忠向義功臣の号を加えられた。同光3年(925年)、前蜀が平定されると、温琪は雄武軍節度使に任じられた。天成元年(926年)、明宗が即位すると、温琪は入朝し、宮中に留まることを願い出て許され、左驍衛上将軍に任じられた[5][7]。天成3年(928年)1月、右金吾衛大将軍に転じた[8]。3月、左金吾衛大将軍となった[9]長興2年(931年)、華州節度使となり[10]光禄大夫・検校太傅を加えられ、平原郡開国公に進封された[5][7]清泰元年(934年[11]、引退して宋城県に帰りたいと上表し、太子少保として致仕した[注釈 1]後晋天福元年(936年)12月、家で死去した。享年は75。太子太保の位を追贈された[注釈 2][5][7]

家族

  • 祖父:華楚(農業を生業とした)
  • 父:華敬忠[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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