菱川文博

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菱川 文博(ひしかわ ふみひろ、1925年大正14年)2月1日 - 2017年平成29年)1月11日[1])は、日本の地方官僚実業家広島長崎で相次いで原子爆弾の被害を受けた二重被爆者のひとり。

兵庫県阪神県民局長[1]、兵庫県企画部長を務めた後、コナミ工業株式会社名誉会長、株式会社G-7ホールディングス社外取締役を歴任した。

兵庫県明石市大蔵町で出生。父は兵庫県庁の職員、母は助産師(両親の略歴については後述)。両親はいずれも仕事で忙しかったので、菱川は祖母ために育てられた。

明石市立人丸小学校卒業後、旧制県立明石中学校(のちの兵庫県立明石高等学校)に進学。相撲が好きで、幼少時は強かったが、このときは周囲より体が小さかったので入部をあきらめ、吹奏楽部に入り大太鼓を担当した。県の選抜演奏チームにも選ばれ、全国中等学校優勝野球大会(のちの全国高等学校野球選手権大会)の入場行進に、5年間皆勤で出場した。

旧制官立神戸高等商業学校(のちの神戸大学経済学部)に進学。公然と軍国主義に反対し、処分(退学)を受けた。因みに長男も同じように高校と大学を自主退学している。1944年(昭和19年)6月、19歳のときに受けた最初の徴兵検査では、姉が結核を患っていたこともあり不合格となった。明石市内の軍需工場で働いていた1945年(昭和20年)6月に受けた2度目の検査は甲種合格で、召集。

1945年8月6日、駐屯地の長崎市へ向かう列車が広島市を通りかかった際、投下された原子爆弾により被爆。さらに3日後の8月9日、駐屯地の長崎市五島町でも原子爆弾に被爆する。五島町は、爆心地から2.7キロ地点であった。菱川は、所属部隊が翌日10日から長崎市内で被爆者の救助活動を行う際、別の兵士(小隊長)とともに、宿営地である長崎市立土井首国民学校での留守役を中隊長に命じられた。菱川はのちに、他の隊員の多くは被爆の後遺症で短命の者が多かったが、自身は郊外にあった国民学校で待機したことで、残存放射能の被曝量が少なかったことが長命の要因となったのではないかと述懐している。

終戦後、父の勧めで兵庫県庁に入庁。1955年(昭和30年)、在庁中に自治大学校を首席で卒業。県庁では青少年局長・阪神県民局長・企画部長を務め、金井元彦坂井時忠両県知事の側近として、神戸空港建設計画や西播磨テクノポリス構想[1]において手腕を発揮した。

定年前に行われる予定の明石市長選への出馬要請を受けていたが固辞し、コナミ工業創業者・上月景正に請われ、1984年(昭和59年)、同社の会長に就任。1987年から1992年までは社長職に就き、家庭用ゲーム機・ファミリーコンピュータ用ソフト事業への参入[1]コナミ神戸ビルへの本社移転、東証一部[1]大証一部上場など、神戸時代のコナミを支えた。

コナミ名誉会長を4年経験した後、武庫川女子大学短期大学部の講師を務める。その後、G-7ホールディングスの社外取締役として約10年勤務のほか、講演活動を行った。

88歳となった2013年(平成25年)5月、妻とともに長女が住む千葉県船橋市に移住。被爆の後遺症で甲状腺がん、腎臓がん[1]が悪化し、2017年(平成29年)1月11日、自宅にて91歳で逝去した。妻は船橋市の自宅で介護を受けながら暮らしていたが、老衰のため2021年(令和3年)1月12日に98歳で逝去した。命日は(4年)1日違いである

人物

著書

脚注

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