萩原恭次郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
金井 恭次郎 かない きょうじろう | |
|---|---|
|
| |
| ペンネーム | 萩原葉歌、萩原恭次郎 |
| 生誕 |
萩原 恭次郎 1897年5月23日 群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町) |
| 死没 | 1938年11月22日(41歳没) |
| 職業 | 上毛貯蓄銀行行員、煥乎堂従業員など |
| 教育 | 群馬県立前橋中学校卒 |
| ジャンル | 短歌、詩 |
| 文学活動 | ダダイスム、アナキズム |
| 代表作 | 『死刑宣告』『断片』 |
萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年〉5月23日[1][2][3] - 1938年〈昭和13年〉11月22日)は、大正・昭和時代の詩人。大正末期の芸術革命の先頭に立ち、はじめはダダイストとして活動したが、のちアナキズム運動に傾倒。若くしてこの世を去った。詩集『死刑宣告』、詩篇「もうろくずきん」「亜細亜に巨人あり」などの作品で知られる。本姓は金井(養子になったことによる)。
1899年(明治32年)、群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町)の農家、萩原森三郎・だいの次男として生まれる[1][2][3]。幼少期にナイフが右眼に刺さったことが原因で強度の近視となる[1][2]。1909年(明治42年)に父の叔母・金井ソウ(元総社村石倉)と養子縁組し、金井恭次郎となる[1][2][3]。1912年(明治45年)南橘村桃川小学校を卒業し、前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)へ入学[1][2][3]。3年への進級の際に落第している[1][2][3]。在学中より石川啄木・土岐哀果・北原白秋の作品を愛読し萩原葉歌のペンネームで短歌を作るようになった[1][2][4][3]。1916年(大正5年)前橋で北原放二(加藤素治)が創刊した『キツネノス』に6号から参加し、萩原朔太郎のもとにも出入りするようになる[1][2]。
1917年(大正6年)『秀才文壇』に川路柳虹の推薦で「夜の蛙」が掲載される[1][2][3]。1918年(大正7年)前橋中学校を卒業[1][2][3]。同年川路柳虹の『現代詩歌』に参加[1][2][3]。葉歌のペンネームの使用を止めた[1][2]。1919年(大正8年)日本赤十字社群馬県支部の事務員として採用されるが、肋膜を冒され半年ほどで辞職[1][2]。この時期マッテア教会に通い聖書の講義を受ける[1][2][3]。ハバロフスクの修道院に行くつもりでロシア語を学び、新島襄、内村鑑三、二葉亭四迷、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなどの著作を読む[1][2]。また山村暮鳥の『苦悩者』に参加[1][2]。
1920年(大正8年)平戸廉吉と知り合い、新しい詩運動に注目する[1][2]。また川路柳虹の推薦で詩話会会員となる[1][2]。このころ上毛貯蓄銀行細ヶ沢支店に勤務する[1][3]。1921年(大正10年)萩原朔太郎と文芸座談会を始める[1][2]。井上康文らが「詩人会」を結成し『新詩人』を創刊すると同人として参加[1][2]。高畠素之のところにも出入りするようになる[1][2]。
1922年(大正11年)に上京[1][2][4][3]。正光社に入社し『飛行少年』編集者として働き始める[1][2][3]。このころクロポトキンの著作を愛読した[1][2][4]。1923年 (大正12年)壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎らと『赤と黒』を創刊[1][2][4][3]。
1924年(大正13年)前衛美術雑誌 『マヴォ』創刊[1][2]。また橋爪健らと『ダムダム』を創刊する[1][2]。1925年(大正14年)第一詩集『死刑宣告』を上梓[1][2][4]。
1926年(大正15年)に帰郷し、上毛詩人会を結成[1][2][3]。さらに上毛マンドリン倶楽部・ペタン社、野菊社、あらりるれろ社、交友会(田園詩歌社)、郷土芸術社に呼びかけ、上毛綜合芸術協会を設立した[1][2][3]。『太平洋詩人』が創刊されると同人として参加[1][2]。1927年(昭和2年)壺井繁治、岡本潤、小野十三郎らとアナキズム文学誌『文芸解放』を創刊した[1][2][3]。またサッコ・ヴァンゼッティ釈放要求大会で石川三四郎・新居格らと講義演説をしてアメリカ大使館に押しかけ検束留置される[1][2]。同年岡本潤、小野十三郎、草野心平らと『バリケード』を発行[1][2][3]。東京での生活に困窮し、1928年(昭和3年)帰郷し石倉の家に戻る[1][2][3]。
このころの前橋には草野心平や伊藤信吉がおり、彼らの創刊した『学校』に作品を発表した[1][3]。また前橋の製糸工場でアナキズム運動の働きかけも行った[1][2]。1931年(昭和6年)草野心平、小野十三郎との共訳で『アメリカ・プロレタリヤ詩集』を刊行し、同年第二詩集『断片』を出版する[1][2][4]。1932年(昭和7年)に謄写版による雑誌『クロポトキンを中心とした芸術の研究』を創刊する[1][2][4]。第1号に「もうろくづきん」を発表した[1][2]。1934年(昭和9年)高橋元吉のあっせんで煥乎堂に入社[1][2]。
1937年(昭和12年)から胃潰瘍の持病に悩まされるようになる[1][2][3]。1938年(昭和13年)11月22日、溶血性貧血により死去[1][2][3]。同月菊岡久利の詩集『時の玩具』に序文を書いたのが絶筆となった[1][2]。墓所は前橋市石倉町に所在[3]。戒名は宝積院哲茂恭謳居士[1][2][3][5]。
主な詩集
- 第一詩集『死刑宣告』(1925年10月18日、長隆舎書店、装幀・岡田龍夫)
- 第二詩集『断片』(1931年、渓文社)
- 『萩原恭次郎全詩集』(1968年、思潮社)
- 『萩原恭次郎全集』全三巻〈伊藤信吉、秋山清、川浦三四郎編〉(1980年、静地社)