蓮乗院 (相模原市)

From Wikipedia, the free encyclopedia

所在地 相模原市緑区東橋本3丁目12-3[1]
位置 北緯35度35分53秒 東経139度21分11秒 / 北緯35.59806度 東経139.35306度 / 35.59806; 139.35306座標: 北緯35度35分53秒 東経139度21分11秒 / 北緯35.59806度 東経139.35306度 / 35.59806; 139.35306
山号 天縛山[2]
蓮乗院
山門
所在地 相模原市緑区東橋本3丁目12-3[1]
位置 北緯35度35分53秒 東経139度21分11秒 / 北緯35.59806度 東経139.35306度 / 35.59806; 139.35306座標: 北緯35度35分53秒 東経139度21分11秒 / 北緯35.59806度 東経139.35306度 / 35.59806; 139.35306
山号 天縛山[2]
宗派 真言宗智山派[2]
本尊 不動明王[2]
創建年 天文3年[2]
開山 長尊[2]
文化財 蓮乗院の順席(市文化財)[3]
法人番号 8021005002781 ウィキデータを編集
蓮乗院 (相模原市)の位置(神奈川県内)
蓮乗院 (相模原市)
テンプレートを表示

蓮乗院(れんじょういん)は神奈川県相模原市緑区東橋本にある真言宗智山派の真言密教寺院である。高尾山薬王院の末寺で、山号を天縛山という。不動明王を本尊としている[2][4][5]

後奈良天皇の時代、天文3年(1534年)に長尊が創建[5]

号は、天縛山無量寺。新義眞言宗(高尾山薬師院末)で本尊は阿弥陀如来。慶安2年(1649年)に寺領とし幕府から八石四斗(840升)の御朱印を受けていた[6]

明治11年(1878年)に全焼。客殿、山門を昭和59年(1984年)に再建、本堂は平成6年(1994年)に完成[5]

天保14年(1843年)に、原清兵衛光保を中心に新田「清兵衛新田」の開墾が始まった。その開発に携わる人々が宿泊し、職務にあたった[5]。境内に原清兵衛のお墓がある[7]

明治5年(1872年)に、政府の学制発布を受け、寺子屋である養麟学舎が開設。明治11年(1878年)に全焼した際、蓮乗院の東側にある霧生家という屋敷に移した[8]

昭和56年(1981年)に、徳川幕府の慶応3年(1867年)の6月から10月の間に作られた「順席」が発見された[9]

境内

本堂、梵鐘・鐘楼、山門、客殿、原清兵衛の墓碑、養麟学舎の碑がある[2][10][11][12]

春にはシャクヤクやシャクナゲ、冬には梅が花をつける[13]

本堂

1878年(明治11年)の火災により焼失し、1994年(平成6年)に再建された[10][11]

蓮乗院本堂

梵鐘・鐘楼

江戸講中によって寄進されたもの[2]。第二次世界大戦で供出されたが、1984年(昭和59年)に再建された[12]

蓮乗院(相模原市)鐘楼

山門

1878年(明治11年)の火災により焼失し、1984年(昭和59年)に再建された[10][11]

蓮乗院山門

その他

  • 原清兵衛の墓 - 江戸時代の天保期に行われた清兵衛新田の開拓の発起人で、小山村の豪農である原清兵衛の墓がある[14][15][16]

文化財

蓮乗院の順席

1983年(昭和58年)6月から1984年(昭和59年)までの期間に実施された相模原市内の寺院調査で相模原市立博物館館長の神崎彰利が発見したもの[1][17]。江戸城で将軍に拝謁するために大名たちが控える「詰め部屋」の中の席順などを記したもので、大名の名前などが書かれた名刺短冊が貼り付けられている[3][4]。全国では国立国会図書館と蓮乗院の2つだけであり、研究・解析し、活字化されているのは、蓮乗院の文書だけである[17]。原本は蓮乗院で保管されており、非公開である[17]。相模原市立博物館に写真撮影した文書があり、相模原市立小山公民館には複製がある[17]

交通アクセス

周辺施設

養麟学舎

養麟学舎(寺子屋)の記念碑

1873年、小山村で蓮乗院を借用して、「すぐれた子のまなびや」ということで開設された学校(寺子屋)のこと。

背景として、1872年(明治5年)に、政府の学制発布により、併せて各府県に頒布した通知は、村に不学の戸なく、家に不学の人なきようにという父兄へ努力を求める主旨のものがあった。これを受けて、1873年(明治6年)に蓮乗院を借用して「養麟学舎」が開設。上溝の後藤庄左ヱ門が教師に任命され、初年度、6~12歳までの村の子が就学児となることであったが、就学率は30%程度であったようであった。これは当時の教育の必要性を父母が理解していたのであろうが、子供たちにまでそれなりに働いてもらわなければ生活が苦しかったということも事実のようであった[19]

1878年(明治11年)に蓮乗院が全焼してしまい、養麟学舎は蓮乗院の東側にある霧生家に移された。次第に生徒が増えて手狭になり、氷川神社に分校を作ったとのことであった。当時の近隣の寺子屋は、蓮乗院の「養麟学舎」(小山村)、正泉寺の「益進学舎」(相原村)、瑞光寺の「本然学舎」(橋本村)の3つで、それぞれのお寺に石碑が建っている。この3つの寺子屋が、後に尋常小学校にまとめられた[10]。これが旭小学校になった[8]

なお、1875年(明治8年)に、学舎名は改正により小山学校となった[19] という記述もある。養麟学舎はその後、旭小学校、旭第二文教場となり、旭第二文教場は現在の向陽小学校となった[20]という記述もある。

現在は、蓮乗院の山門を入ると右手に 2mほどの高さの「養麟学舎開設之地・小学校之源流」と刻まれた石碑が建っている。

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI