蔭山氏
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赤松氏庶流の蔭山氏
播磨国を中心として活動した系統。複数の系譜伝承があり、紀氏一族を起源とする説や、赤松氏の諸流とする説がある。「東大寺文書」によれば、貞和年間、播磨国大部荘において紀氏一族の蔭山党が悪党として活動していた記録がある[2]。『赤松盛衰記』では、赤松貞範の子孫である春日部流(伊豆家)の庶流とされる[3]。「赤松諸家大系図」では、赤松範資の次男・赤松朝範(在田朝則)の子孫に蔭山氏の名が見える[4]。これに関連して、朝範の4世孫に蔭山信房・蔭山信定・蔭山国包の兄弟がいたとされる[5]。
主な人物・拠点
- 蔭山次郎右衛門入道:永和2年(1376年)、播磨国福田保について赤松義則から書状を送られている[6]。
- 蔭山信房(左馬丞):播磨国砥堀城主。嘉吉年間に武功があったと伝えられ、妻は白国宗信の娘であったという[7]。
- 蔭山清道(右近):大日山城主。播磨別所氏の家臣であったとされる[8]。
- 蔭山辰吉(弥左兵衛):白国治太夫源宗貞の家臣として名が見える[9]。
室町幕府奉公衆の蔭山氏
足利将軍家に直属する奉公衆として活動した系統。伊豆の蔭山氏の祖とされる伝承も持つ。『寛政重修諸家譜』によれば、源姓蔭山氏の祖は鎌倉公方・足利持氏の7男とされる蔭山広氏である。永享の乱(1439年)で持氏が自害した際、3歳だった広氏は乳母に連れられて伊豆国へ逃れ、外戚の苗字である蔭山氏を名乗ったとされる。一方、黒田基樹は、蔭山氏は本来は室町幕府の奉公衆であり、足利政知に従って下向し、堀越公方の奉公衆(伊勢盛時の同僚)になったと指摘している[1]。
主な人物
- 陰山吉道(出羽守):延文3年(1358年)、足利義詮の参内に供奉した人物として名が見える[10]。
- 蔭山実阿(入道):応永15年(1408年)、早歌の好士として『教言卿記』に記されている[11]。
- 蔭山道筠(兵庫入道):文安5年(1443年)没。享年63。大炊御門高倉の道場で亡くなった際、父の匠作禅門や子の将監らは遠江国橋本で所領経営を行っていた[12]。
- 蔭山左京亮:文安年間に奉公衆五番として活動[13]。
- 蔭山大和入道:享徳3年(1454年)頃、『康富記』に活動が見える。
- 蔭山貞廉(与次郎):長享元年(1487年)、足利義尚の「鈎の陣」に従軍[14]。
- 蔭山貞広(左京亮):延徳3年(1491年)、遠江国浅羽荘(足利義政の娘・光山聖俊の御料所)の代官を務めていた[15]。
東国(今川・後北条・徳川家臣)の蔭山氏
駿河、伊豆、遠江を拠点とし、戦国大名に仕えた系統。徳川頼宣・頼房の母である養珠院を輩出したことで知られる。明徳3年(1392年)、駿河国大岡荘三枚橋城主・影山基広の3男である阿闍梨日性が没したという伝説がある[16]。
- 明応2年(1493年)、伊勢盛時(北条早雲)が足利茶々丸方の拠点であった河津城の蔭山勘解由を攻めている[17]。天文年間以降、蔭山与次が今川氏の被官として活動し、一方で蔭山家広(長門守)は後北条氏の有力家臣・松田盛秀の同心衆として富士郡や伊豆で活動した。
主な人物
- 蔭山図書助:天文5年(1536年)、北条綱成の名代として活動[18]。
- 蔭山家広(長門守):北条氏康に仕え、鶴岡八幡宮の造営や富士上方の代官職を担った[19][20]。
- 蔭山忠広(刑部左衛門):永禄2年(1559年)時点、伊豆国原木に所領を有していた[21]。
- 蔭山又六:小机衆。小机本荘の代官を務め、『小田原衆所領役帳』の編纂にも関与した。
- 蔭山大膳亮:遠山衆として名が見える。
- 蔭山尾張守・右京亮:永禄3年(1560年)、遠江国山名郡久津部村にて今川方の松井宗恒の寄子として活動[22]。
- 蔭山氏広:広氏の5世孫。妻は北条氏隆(または氏堯)の娘。養女の満(養珠院)が徳川家康の側室となり、紀州徳川家始祖の頼宣、水戸徳川家始祖の頼房をもうけた。