蕭翰

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蕭 翰(しょう かん、生年不詳 - 949年)は、(契丹)の外戚。またの名は敵烈。は寒真[1]

契丹の宰相蕭敵魯の子として生まれた。天賛元年(922年)、晋王李存勗の兵が鎮州を包囲すると、成徳軍節度使の張文礼が使者を派遣して救援を求めてきた。蕭翰は勅命を受けて康末怛とともに救援に赴き、晋軍を撃破して、その将の李嗣昭を殺し、石城を攻め落とした。会同初年、漢軍侍衛を領知した。会同8年(945年)、後晋を討ち、後晋の将の杜重威を破り、望都県まで追撃した。蕭翰が軍に下馬させて射るよう太宗に進言すると、太宗は聞き入れた。晋軍が短い武器を持って白兵戦を挑んできたため、契丹軍は敗れた。太宗は蕭翰の言を用いたことを後悔した。会同10年(947年)1月、蕭翰は太宗に従って開封府に入った[1]大同元年(同年)3月、宣武軍節度使となった[2]

後漢の高祖劉知遠太原府で即位すると、蕭翰は後唐明宗の末子の許王李従益に南朝の国事を委ねて北帰した。鎮州で張礪と出会うと、かれと古い恨みがあったため、その罪を列挙して幽閉した[3]。蕭翰は世宗に従って上京に向かった。この年の秋、世宗と述律太后が潢河を隔てて対峙すると、蕭翰は和議のために太后と面会した。太后が「おまえは何の恨みがあって叛いたのか」と問うと、蕭翰は「臣の母は罪なくして太后に殺されました。このため恨まずにはいられないのです」と答えた。耶律屋質が太后について捕らえられると、蕭翰はこれを聞いて喜び、牢屋に赴いて「おまえはかつて私がおまえに及ばないと言ったが、今はおまえが監獄にいるのはどうしてだ」と問うと、耶律屋質は「公に願うこと足らなかったのでこのようになったのです」と答えたので、蕭翰は黙り込んだ[4]

天禄2年(948年)、蕭翰は世宗の妹の耶律阿不里を妻に迎えた。のちに耶律天徳とともに反乱を計画し、獄に下された。また惕隠の耶律劉哥やその弟の耶律盆都と結んで反乱を計画した。耶律石剌が耶律屋質に告発し、耶律屋質が上奏したが、世宗は蕭翰を釈放した[5]。天禄3年(949年[6]、耶律阿不里が明王耶律安端に信書を送って反乱を起こそうとしたが、その信書が耶律屋質の手に落ちて上奏され、蕭翰は処刑された[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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