薄田太郎
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広島市に生まれ、1908年創立されたばかりの広島市立竹屋小学校に入学[1]。卒業後、県立広島商業学校(現在の県立広島商業高校)に入学し、学生野球の応援団長として名を馳せた。その後、素人劇団「広島十一人座」の同人となり、1928年の広島放送局の開局とともに初代アナウンサーの一人となり、特にスポーツ実況で知られた。敗戦前後は南方にいたため原爆には被災せず、翌1946年夏に引揚船により帰国[2]。以降、定年までNHKアナウンサーを務める一方で大衆芸能・スポーツ・郷土史など多岐にわたる精力的な評論・著述活動をおこなった。1967年病気により死去(享年64)。
業績
アナウンサーとしての活動の傍ら、「流石三郎」などの筆名でスポーツ・芸能評論、郷土史を執筆し、宮島・広島の歌舞伎年代記の研究を続けた。戦後の引揚帰国以降、原爆により大半が焼け跡となった広島市街の各地を探訪し知人からの聞き取りを行い、戦前期を中心とする広島の大衆文化誌ともいうべき「がんす横丁」シリーズを1949年9月から『夕刊ひろしま』に連載し、のち掲載紙を『中国新聞』に移動して1961年2月まで執筆した。1957年6月、広島でのスポーツ放送の開拓と郷土史研究の業績が評価され前島会中国賞を受賞した。『がんす横丁』の完成・刊行を期していたが病死により未完に終わり、没後の1973年、長男の純一郎の編集により連載分の原稿が全4巻にまとめられたくみ出版から刊行された。さらに1975年には同様に純一郎によって整理された遺稿をまとめ『宮島歌舞伎年代記』が国書刊行会から刊行された。[3]。
また広島県立文書館所蔵の「複製資料」中「広島市」の部に、薄田遺贈の「大正11~13年十一人座関係資料等」などが「薄田太郎文書」(2冊)として収められている[4]。