薛況
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父の薛宣は、丞相・高陽侯に昇りつめてから、失政を成帝に咎められ罷免された。その後、法と制度に詳しいことから高陽侯に復していた。
哀帝が即位した頃(綏和2年、紀元前7年以降)、右曹侍郎の薛況は、給事中の申咸が薛宣の過去の失敗をそしって免職すべきと論じていることを知った[1]。薛況は、食客の楊明に金品を贈り、申咸の顔面に傷を付けるよう求めた[1]。漢では顔に刀傷がある人は官吏になれないという規則があったためである[2]。
中央の官吏の監察をつかさどる司隷校尉が欠員になったとき、申咸が後任になるのではないかと恐れた薛況は、ついに楊明に襲撃を実行させた[1]。楊明は宮門の外で申咸を遮り、鼻と唇を断ち、体に8つの傷を負わせた[1]。
事件を審理した御史中丞の衆らは、宮門の近くで近臣を襲ったのは、庶民の争闘とは異なり、大不敬の罪で棄市(さらし首)にすべきだ、と奏上した[3]。廷尉の龐真は、私事を争った傷害であるから大不敬ではなく、死刑にすべきではないと奏上した[4]。丞相の孔光と大司空の師丹は御史中丞に賛成したが、他は将軍から博士・議郎までみな廷尉を支持した[5]。皇帝は死一等を免じ、薛況を敦煌への流刑にした[5]。父の薛宣は連座して庶民に落とされた[5]。楊明の刑は不明である。