藤原友人 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 奈良時代 - 平安時代初期生誕 神護景雲元年(767年)死没 弘仁13年8月16日(822年9月4日)官位 従四位下、相模守 凡例藤原友人時代 奈良時代 - 平安時代初期生誕 神護景雲元年(767年)死没 弘仁13年8月16日(822年9月4日)官位 従四位下、相模守主君 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇氏族 藤原南家乙麻呂流父母 父:藤原是公、母:不詳兄弟 真友、雄友、弟友、友人、吉子妻 不詳子 息道、良道テンプレートを表示 藤原 友人(ふじわら の ともひと)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。藤原南家乙麻呂流、右大臣・藤原是公の子。官位は従四位下・相模守。 従五位下に叙爵の後、延暦24年(805年)播磨権介に任ぜられ、翌延暦25年(806年)播磨介に昇格する。しかし、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変において、兄で大納言・藤原雄友と共に連座して、下野守に左遷され失脚する。 嵯峨朝に入ると赦されて入京し[1]、弘仁元年(810年)兵部少輔に任ぜられて官界に復帰するが、翌弘仁2年(811年)讃岐守に転じる。のち、弘仁7年(816年)従五位上、弘仁10年(819年)正五位下と昇叙され、嵯峨朝末に従四位下に至る。弘仁13年(822年)8月16日病気により卒去。享年56。最終官位は相模守従四位下。 人物 小人物で、礼の法度を守らなかった。仙道を好んだが、空中を飛ぶことはできなかったという[1]。 官歴 『日本後紀』による。 時期不詳:従五位下 延暦24年(805年) 12月15日:播磨権介 延暦25年(806年) 正月28日:播磨介 大同2年(807年) 9月:下野守[1] 弘仁元年(810年) 9月16日:兵部少輔 弘仁2年(811年) 5月14日:讃岐守 弘仁7年(816年) 正月7日:従五位上 弘仁10年(819年) 正月7日:正五位下 時期不詳:従四位下。相模守 弘仁13年(822年) 8月16日:卒去(相模守従四位下) 系譜 『尊卑分脈』による。 父:藤原是公 母:不詳 生母不詳の子女 男子:藤原息道 男子:藤原良道 脚注 1 2 3 『日本後紀』弘仁13年8月16日条 出典 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年 Related Articles