藤原娍子
日本の平安時代の女性、三条天皇皇后
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生涯
当初花山天皇から入内を請われるが、父の済時が固辞[1]。正暦元年(990年)12月26日に同母妹の中の君とともに着裳。三条天皇の皇太子時代に東宮妃として入内、宣耀殿・東宮更衣と称した。美貌であったといい天皇の寵愛も篤く、敦明親王(小一条院)を始め、敦儀親王・敦平親王・師明親王(性信入道親王)・当子内親王(伊勢斎宮)・禔子内親王(藤原教通室)ら四男二女をもうけた。
しかし、父済時の死後は後見も弱く、ことに左大臣・藤原道長が娘の妍子を後宮に送り込み中宮に立てたため、その権勢に押されがちであった。これに対して三条天皇は、大納言で没した父済時に右大臣を追贈し娍子を皇后に立てたが、立后当日も道長の妨害に遭い、儀式に参列した公卿は弟の通任以外には藤原実資・藤原隆家・藤原懐平のみの侘しさだった[注釈 1]。
その後、三条天皇の譲位に伴い長男・敦明親王が後一条天皇の皇太子となるものの、上皇の没後に敦明親王自ら皇太子を辞去、また前斎宮であった長女・当子内親王が藤原道雅と密通するなど、皇后でありながら不遇な生涯を送った。
年譜
主な女房
- 少納言乳母
- 式部宣旨(945?-?) - 平致方母