藤原明衡
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一条朝の寛弘元年(1004年)大学に入学し、長和3年(1014年)文章得業生に補せられるが、儒家の出身でないため対策に合格するのに歳月を要し、後一条朝の長元5年(1032年)になってようやく及第して左衛門尉に任命された。対策制度の因習を苦々しく思い、後輩に対策の答えを密かに教え二度にわたり罰せられた事もある。
その後、後冷泉朝にて出雲守・式部少輔を務めるが昇進が遅滞し、康平元年(1058年)70歳にして五位に留まる境遇を嘆いている[2]。康平5年(1062年)文章博士に任ぜられると、春宮・尊仁親王の東宮学士や大学頭を兼ねる等、学者としての官職を歴任し、位階は従四位下に至る。後冷泉朝の文人の第一人者として元号や皇子の諱の選進を行ったほか、表や願文の制作、作文会での詩作に活躍した[3]。
治暦2年(1066年)老いと病気のために致仕し、10月18日卒去。享年78。
詩文に秀で、漢詩作品が『本朝続文粋』『本朝無題詩』などに採録されているが、長年の沈淪した境遇を嘆く暗い色調の詩文が多い[4]。平安時代の名文を集めた『本朝文粋』や秀句を集めた『本朝秀句』を編修したほか、当時流行した猿楽と見物の人々を通して当時の風俗を描写した『新猿楽記』や、書簡の模範文例を集めた『明衡往来』等を著している。