藤原為信 (鎌倉時代)
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生家は藤原北家国経流の嫡家で、右馬頭伊信の子。初名は為行。文応2年(1261年)14歳で叙爵。文永3年(1266年)中務少輔に任じ、以後左京権大夫、左馬権頭、刑部卿を歴任。政治的には安嘉門院、大覚寺統に近かったとする説がある。嘉元元年(1303年)皇太子富仁親王の読書始において、関白二条兼基の陪膳役を務めている。また一時期鎌倉に下向していた時期があり、関東で詠んだとされる和歌が数首残る。同じく在鎌倉の冷泉為相や二条為道と交流があった[1][4]。
嘉元2年(1304年)57歳の時、散位で従三位に進み、祖父以来の公卿に列する。嘉元4年(1306年)出家して官を辞す[1][2]。没年は知られないが、薨去の際に存命だった嫡男の為理は正和5年(1316年)に没しているため、それ以前ということになる[5]。