藤原縵麻呂 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 奈良時代後期 - 平安時代初期生誕 神護景雲2年(768年)死没 弘仁12年9月21日(821年10月20日)官位 従四位下、大舎人頭 凡例藤原 縵麻呂時代 奈良時代後期 - 平安時代初期生誕 神護景雲2年(768年)死没 弘仁12年9月21日(821年10月20日)官位 従四位下、大舎人頭主君 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇氏族 藤原式家父母 父:藤原種継、母:雁高佐美麻呂の娘兄弟 仲成、縵麻呂、山人、藤生、井出湯守、世嗣、安継?、薬子、東子子 貞成、城成テンプレートを表示 藤原 縵麻呂(ふじわら の かずらまろ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原式家、中納言・藤原種継の次男。官位は従四位下・大舎人頭。 延暦4年(785年)父の藤原種継が暗殺されてまもなく、兄・仲成とともに従五位下に叙せられ、翌延暦5年(786年)皇后宮大進に任ぜられる。桓武朝において、大判事といった京官や、相模介・相模守・因幡守・豊前守等の地方官を歴任する。またこの間の延暦23年(804年)には正五位下から正五位上に昇叙されている。平城天皇の即位を挟んで、大同3年(808年)迄には従四位下・右大舎人頭に叙任され、同年美濃守を兼ねている。 弘仁元年(810年)薬子の変が発生し兄弟の仲成・薬子が死亡するが、縵麻呂は難を逃れたらしく、翌弘仁2年(811年)大舎人頭に任ぜられている。弘仁12年(821年)9月21日卒去。享年54。 人物 愚鈍な性質で、書類作成もままならなかった。大臣(種継)の子息であることを以て、内外の諸官を歴任したが、どの官職でも名声を得ることはできなかった。ただ酒色のみを好み、他事を顧みる事はなかったという[1]。 一方で、薬子の変で失脚した藤原仲成・薬子の兄弟であったことから、『日本後紀』にある「酒と女性を好んだ」という記述は保身のための行為で、人目を欺くためにのめりこんだものとする考えもある[2]。 官歴 『六国史』による。 時期不詳:正六位上 延暦4年(785年) 11月25日:従五位下 延暦5年(786年) 正月28日:皇后宮大進(皇后・藤原乙牟漏) 延暦7年(788年) 2月6日:相模介 延暦10年(791年) 正月22日:相模守 時期不詳:大判事 延暦16年(797年) 2月9日:兼因幡守 時期不詳:正五位下 延暦23年(804年) 正月11日:正五位上。正月24日:豊前守 時期不詳:従四位下。右大舎人頭 大同3年(808年) 6月25日:兼美濃守 弘仁2年(811年) 5月14日:大舎人頭 時期不詳:越後守[3] 弘仁12年(821年) 9月21日:卒去(従四位下) 系譜 『尊卑分脈』による。 父:藤原種継 母:雁高佐美麻呂の娘 妻:不詳 男子:藤原貞成 男子:藤原城成 脚注 ↑ 『日本後紀』弘仁12年9月21日条 ↑ 遠藤慶太 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.107. ↑ 『尊卑分脈』 出典 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年 Related Articles