藤原重家 (左近衛少将) From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代中期生誕 貞元2年(977年)死没 不詳別名 光少将 凡例藤原重家時代 平安時代中期生誕 貞元2年(977年)死没 不詳別名 光少将官位 従四位下、左近衛少将主君 一条天皇氏族 藤原北家九条流(兼通流)父母 父:藤原顕光母:盛子内親王(村上天皇の皇女)兄弟 重家、元子、延子、重慶、顕忠子 致貞、経範テンプレートを表示 藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家兼通流、左大臣・藤原顕光の長男。官位は従四位下・左近衛少将。容姿に優れ光少将と謳われた。 一条朝の正暦6年(995年)左近衛少将に任ぜられると、長徳5年(999年)五位蔵人に補され、翌長保2年(1000年)には従四位下に至っている。 長保3年(1001年)いわゆる「寛弘の四納言」(藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の4名)が陣座で朝政の議論をしている様子を目にして自らの非才を覚り、親友の源成信と共に園城寺にて出家して遁世した[1]。この報に接し、後継者を失うことになった父の顕光は悲嘆に暮れたと伝わる。 同じく近衛少将を務めて出家した寂源の弟子となった。没年含め、以後の消息は定かではない。 人物 「光少将」と呼ばれ、当時美男の評判が高かった。 官歴 『近衛府補任』による。 時期不詳:従五位下 正暦6年(995年) 正月13日?:左近衛少将 時期不詳:従五位上 長徳2年(996年) 正月25日:兼近江権介 時期不詳:正五位下 長徳5年(999年) 正月10日:五位蔵人 長保2年(1000年) 正月25日:従四位下、美作守 長保3年(1001年) 2月4日:出家(従四位下左近衛少将兼美作守)[2] 系譜 父:藤原顕光 母:盛子内親王[3] 生母不詳の子女 男子:藤原致貞 - 藤原重輔の養子[4] 男子:経範 脚注 ↑ 『古事談』『愚管抄』『今鏡』などに拠る。実際には、長保3年2月の時点では行成は蔵人頭であり、まだ議政官にはなっていなかった(他の3人は参議)ため、非公式ならばともかく、「陣座で4人が揃って朝政を論じあうことがあったとは考え難い」とされる(竹鼻績『今鏡(中)』講談社学術文庫、1984年)。 ↑ 『権記』 ↑ 『本朝皇胤紹運録』 ↑ 安藤[1999: 26] 参考文献 竹鼻績『今鏡 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1984年 市川久編『近衛府補任』続群書類従完成会、1992年 安藤重和「大納言の君・小少将の君をめぐって--紫式部日記人物考証」『中古文学 63』中古文学会、1999 Related Articles