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藤原銕造

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藤原銕造(ふじわら てつぞう、1876年8月15日[1] - 1966年4月19日[1])は、日本の陶芸家。信楽焼の狸の置物の創案者とされる。以下の記述の多くは、郷土史家の田村博が1980年に銕造の親族から聞き取った内容に基づく。

略歴

1876年(明治9年)、三重県阿拝郡槇山村(現在の伊賀市)にて、藤原栄次郎とすがの間に生まれる[1]。4男2女の長男[1]。農業のかたわら、伊賀・信楽の陶器を京都・大阪へ売りに行くことを生業とする家であった[1]。

1884年(明治17年)、京都の五条坂で清水焼の窯元「丸音」を営む叔父・水谷満次郎のもとへ陶工修行に出る[1]。1888年(明治21年)、六尺胴返しの花活けを作り、一人前となる[1]。1897年(明治30年)、叔父の一人娘である縫と結婚し、その後「丸音」を継ぐ[1]。日露戦争の頃から狸の置物を作るようになり(後述)、1916年(大正5年)から「狸庵」と号す[注釈 1]。大正天皇と昭和天皇の二度の即位の礼において、酒器を宮内庁に納める[1]。

1935年(昭和10年)秋、東京の料亭から日本一の巨大土瓶(4トン車サイズ)の注文を受け[1]、翌年その制作のために手狭な京都から信楽町に移住する[2]。太平洋戦争後、息子の栄蔵に家業を譲る[1]。

銕造と狸

狸をひょうきんに造形した置物は江戸時代から日本各地に存在するが、現在主流のスタイルは銕造が確立し、広めたものである[2]。

1886年(明治19年)秋、「丸音」総出で松茸狩りに出かけた夜、師匠である仙八とともに音羽川のほとりで狸の腹鼓を目撃し、狸の置物の着想を得る[1]。それから約20年後、日露戦争による不況で品物が売れなくなった際、人が真似できないものを作ろうと、かつて見た狸をモチーフにした置物づくりを始める[1]。動物園へ行くのみならず実際に狸を飼って観察と試作を重ね、徐々に縁起物として売れるようになる[1]。大正年間には、皇太子(のちの昭和天皇)の京都行幸のたびに侯爵が狸の置物を買い上げに来たという[注釈 2]。この当時は1尺サイズの置物が人気であった[1]。

信楽移住後、戦時中も戦後の火鉢ブームの最中も狸の置物を熱心に作り続け、たまに火鉢を作っても狸の顔を付け、人から「たぬきや」と呼ばれた[1]。1951年(昭和26年)11月15日、昭和天皇が信楽へ行幸した際、日の丸を持たせた狸の置物が沿道に並べられ、そのことを昭和天皇が歌に詠んだことから大きな話題となった[2][注釈 3]。1952年(昭和27年)に石田豪澄が「たぬき八相縁起」を提唱したことも相まって、信楽焼の狸は全国区の縁起物となった[2]。

脚注

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