藤原顕時
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鳥羽院政期初頭に左近衛将監・六位蔵人を務め、天承2年(1132年)従五位下に叙爵する。長承3年(1134年)藤原泰子が皇后に立てられると、その皇后宮少進(のち大進)に任官した。また、保延2年(1136年)頃から鳥羽院の院司・受領としての活動が見られる。永治元年(1141年)藤原得子が皇后に冊立されると、再び皇后宮権大進に再任されている。
のち、久安6年(1150年)五位蔵人、仁平2年(1152年)右衛門権佐、久寿元年(1154年)左少弁に任ぜられて三事兼帯となったが、翌久寿2年(1155年)早くも右衛門権佐・蔵人を辞任した。
保元元年(1156年)に顕時と改名し、後白河天皇の下で正四位下右大弁に昇進、保元3年8月10日(1158年9月4日)に二条天皇の践祚に先だって左大弁蔵人頭に任ぜられ、翌平治元年(1159年)に参議に任じられ、同年に従三位に叙せられた。翌永暦元年(1160年)に権中納言、応保2年(1162年)には正三位に叙されて大宰権帥を兼ねた。長寛元年(1163年)に大宰権帥を、仁安元年(1166年)に権中納言を辞するが、仁安2年(1167年)1月に従二位民部卿に任ぜられ、間もなく没した。
平家物語においては平清盛に「大小事申し合はせし人」、即ち大きな事から小さな事まで相談に乗ってくれた恩人として回想されており、彼の子・行隆に報恩として左少弁への推薦状、領地の権利書や出仕の為の費用等を用立てている。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 天永元年(1110年) 日付不詳:誕生
- 大治4年(1129年) 10月9日:左近衛将監
- 大治6年(1131年) 正月14日:六位蔵人(院判官代)
- 天承2年(1132年) 正月5日:従五位下
- 長承2年(1133年) 2月9日:見院北面散位[1]
- 長承3年(1134年) 3月19日:皇后宮少進(皇后・藤原泰子)。11月26日:兼摂津守(御祈物進納功)
- 保延元年(1135年) 12月24日:皇后宮権大進(無欠、加任之)
- 保延2年(1136年) 2月21日:見鳥羽院判官代[2]
- 保延5年(1139年) 7月28日:止権大進(依院号)
- 永治元年(1141年) 12月26日:従五位上(院御給)。12月27日:皇后宮権大進(皇后・藤原得子)
- 永治2年(1142年) 正月23日:甲斐守
- 康治2年(1143年) 正月3日:正五位下(院判官代、朝覲行幸)
- 久安5年(1149年) 4月9日:兼勘解由次官
- 久安6年(1150年) 正月29日:去守。10月20日:五位蔵人、次官如元
- 仁平2年(1152年) 8月29日:右衛門権佐
- 久寿元年(1154年) 12月28日:左少弁(超右少弁資長直任、依位次上﨟也、三事兼帯)
- 久寿2年(1155年) 2月25日:辞権佐。7月23日:止蔵人(晏駕)
- 保元元年(1156年) 8月:顕遠から顕時に改名[3]。9月17日:左中弁。閏9月14日:従四位下(久安6年鳥羽院御給)
- 保元2年(1157年) 4月26日:兼修理左宮城使。8月21日:右大弁。10月22日:従四位上(造宮叙位、白河院天治2年未給)
- 保元3年(1158年) 正月6日:正四位下(臨時)。8月10日:左大弁、蔵人頭
- 平治元年(1159年) 2月3日:兼勘解由長官(下名次)。4月6日:参議、弁長官如元。11月22日:従三位(大嘗会臨時、超俊通)
- 永暦元年(1160年) 正月21日:兼近江権守。10月3日:権中納言
- 応保2年(1162年) 正月5日:正三位(行幸院賞、八条院御給)。4月7日:兼大宰権帥
- 長寛2年(1164年) 正月21日:辞大宰権帥(以男盛隆任甲斐守)
- 仁安元年(1166年) 8月27日:辞納言(以男盛隆申任木工頭)
- 仁安2年(1167年) 正月28日:従二位(行幸院司)。正月30日:民部卿。2月14日:薨去、先出家