藤村謙

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藤村 謙[注釈 1](ふじむら ゆずる、1892年明治25年)11月16日[1] - 1977年昭和52年)3月29日[1])は、大日本帝国陸軍軍人陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業[1]。最終階級は陸軍中将

1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた[1]。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた[2]

生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。幼少期は大変な悪童で、友人に投げさせた石が使用人に当たり土蔵に折檻されることもあったという。野々市尋常小学校を経て石川師範学校附属小学校高等科に進学。同級生に草鹿龍之介がおり、下宿先の近所であったため一緒に登校していた。生徒は金沢の上流階級子弟揃いであり、成績は草鹿が一番、二番はのち陸軍中将となる青木重誠で、地元小学校では級長だった藤村も「田舎の大将も威張れず、人後に陥るのも悔しかったが仕方はなかった」と回想する[3]金沢第一中学校に進学後は柔道と野球に打ち込み勉強は試験前以外ほとんどしていなかったが、電力会社の経営維持のために私財を使い果たした父が自己破産し下宿先を追われる。急に手のひらを返したような世間の態度に、自身で道を切り開かなければならないと奮起し、学友の岡田次作本多政以の四男・本多譲らの勧めで学業に専念するようになった。

中学3年生から4年生の時に海軍兵学校、陸軍士官学校、四高をそれぞれ受験する。兵学校は父の自己破産が原因で不合格となり、第一志望であった四高も父の友人で県会議長・河瀬寛一郎より学費が賄わなければ卒業は困難と諭され、陸軍士官学校に進むこととなった。1911年12月、上京し国府台の野砲兵第16連隊に士官候補生として入営。 陸軍士官学校第26期在学中、実家が差し押さえに遭う。陸軍大学校第38期卒業[1]。野砲兵第24連隊大隊長を経て1937年(昭和12年)に野砲兵第6連隊長に就任し[4]日中戦争に出撃。保定会戦、杭州湾上陸作戦、南京攻略、広州掃討戦、武漢攻略に参加し、華北華中で連戦した[1]1938年(昭和13年)に陸軍砲兵大佐に進級し[4]1939年(昭和14年)に留守第4師団参謀長を経て[4]1940年(昭和15年)に満州国軍政部顧問に就任した[4]

1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級し[4]1943年(昭和18年)に第8砲兵団長[1]1944年(昭和19年)に第1方面軍兵器部長を歴任[1]1945年(昭和20年)4月に陸軍中将に進級し[4]、同年6月1月に宇都宮で編成された第351師団長に親補された[1]。その後師団は福岡県福間に移駐し、錬兵中であったが司令部を置いた小野村小野小学校にて会議中に終戦を迎えた[1]

同年秋に現地での残務整理を終えたのち、軍用列車にて北関東出身の将兵を引率して宇都宮に戻り、9月6日に復員した。既に戻る故郷の家もなく途方に暮れていたところ、妻が出会った行商の青年より鉾田町への移住を勧められる。現地で入った床屋にて出会った客より中野村にある親戚宅の離れを譲り受け、現地有力者の倉川五郎(のち茨城県議会議長)の協力を得て農業を始めた[5]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

1953年(昭和28年)に妻子の希望で上京。北多摩郡狛江町の川田雄基元男爵家の土地に新居を構える。この前後、息子が秘書をつとめた参議院議員溝淵春次の再選資金を所有地を担保して融資したが、落選により返済が滞りトラブルとなっている[7]。土地区画整理組会常任理事を務めた。

生家は2021年(令和3年)2月26日に「旧藤村家住宅(田村家住宅)」として国の登録有形文化財に登録された(私有地につき非公開)[8]

栄典

外国勲章佩用允許

親族

著書

脚注

参考文献

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