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藤田ミラノ

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藤田 ミラノ(ふじた ミラノ、1930年〈昭和5年〉[1] - )は、日本の画家、イラストレーター。ヨーロッパではMIRA FUJITA(ミラ・フジタ)の名前で活動した[2]。日本では雑誌や小説に描かれた少女のイラストで、ヨーロッパでは若い女性の道化師などを描いたポスターやさまざまなグッズで知られる。

経歴

生い立ち

書家の藤田讃陽[注釈 1]の長女として香川県に生まれる[4]。本名は藤田久美[4]。就学前に東京都武蔵野市に転居する[4]。子どもの頃は読書好きで、絵では父親の買ってきた『講談社の絵本』の梁川剛一の絵が好きだった[5][6]。女学生時代には放課後の琴の稽古などをさぼって、友達と捕物帖や探偵小説、怪奇小説などを一緒に読んでいたが、少女小説はその存在すら知らなかった[7]。戦争末期に母親の実家に疎開し、蔵に残されていた、23歳で亡くなり写真でしか顔の知らない母親が女学生時代に読んでいた『令女界』を眺めて過ごした[8][7]。

1948年(昭和23年)、多摩美術大学日本画科に入学する[4]。父親は女子が絵描きとはナニゴトと進学に反対していたが、絵の勉強がしたい。絵を描きたいという思いが強かった[9]。教授陣には奥村土牛、新井勝利、郷倉千仭、島田訥郎、森白甫がおり、女生徒は上級生に一人とミラノの二人だけだった[9][4]。大学2年のときに「裸婦座像」で創造美術で初入選する[4]。大学3年のときに「少女とカンナ」で新制作展で入選する[4]。1952年(昭和27年)、卒業制作の「着衣女人像」が日展に入選する[4]。彫刻の勉強もしてみたかったことから、多摩美術大学を卒業後は武蔵野美術大学の彫刻研究科へ通い(1〜2年ほど)、清水多嘉示から指導を受ける[4][10]。

日本での仕事

1953年(昭和28年)、彫刻の材料費くらいは自分で稼ごうと、試しに実業之日本社の雑誌『少女の友』に少女画を送ってみたところ、当時の編集長の森田淳二郎の訪問をうけ、同誌に1、2度少女画を描いた[11]。本格的に仕事をするようになったのは小学館の雑誌『女学生の友』で、初めて挿画が掲載されたのは1953年11月号であった[11]。1955年(昭和30年)には連載小説のカラー挿絵や巻頭カラー口絵を担当し、また別冊付録や1959年(昭和34年)から刊行された増刊号の表紙も多く手がけるようになり、雑誌のメイン画家的な存在となった[12]。

1959年(昭和34年)末、パリに自費留学し、絵の勉強をしながら日本に作品を送った[13][14]。下宿先の近く、カンパーニュ=プルミエール通り(フランス語版)には藤田嗣治が住んでおり、ときおり訪問しては言葉を交わし、絵描きはマメでなくちゃいけないよとよく言われたという[15]。父親の病気の知らせを受けて1962年(昭和37年)末に日本に帰国する[4][14]。父親は翌年の春に死去した[14]。

1965年(昭和40年)に集英社が小説の単行本であるコバルト・ブックスシリーズを開始すると、1971年(昭和46年)まで200冊近く刊行されたが、そのうち約半数の表紙画を担当した[16][注釈 2][注釈 3]。1967年(昭和42年)に創刊された小学館の『ジュニア文芸』では終刊の1971年(昭和46年)8月号まで表紙画を担当した[20][注釈 4]。1967年にはサトウハチローからの要望で山梨シルクセンター出版部から刊行された詩集『美しきためいき』の装幀も担当している[21][注釈 5]。

パリに拠点を移す

1972年(昭和47年)、多忙のため体調を崩し、休養を兼ねて再びパリへ渡る[22]。当初は以前と同じように現地から日本に作品を描き送るつもりだったが、着いてみると気が抜けたようになってしまい、日本の仕事から遠ざかった[14]。

1974年(昭和49年)、ミラノの絵を見た下宿先のマダムから、親戚の詩を書く女性を紹介され、その女性の依頼で少女雑誌の詩の投稿コーナーに何度か絵を描く[23]。それがきっかけとなり、ソシエテ・パリジェンヌ・エディション(Société Parisienne d'Édition)社の少女雑誌『quinze ans』の表紙画を2年余のあいだ描いた[23][注釈 6]。1977年(昭和52年)にはテュレ(touret)社から『シンデレラ姫(CENDRILLON)』『親指太郎(le petit poucet)』といった絵本が刊行された[4][注釈 7]。少女小説の挿絵の依頼もあったが、日本での多忙な日々を思い出し気が進まず断ったところ、子どものポスターを依頼され、同年、アルポ社から子供と動物の絵が描かれた、ミラノがパリで描いた初めての観賞用ポスターが発売された[26]。

紫のピエロ

1978年(昭和53年)頃、オランダのJF社の依頼で描いた子どもの絵3枚と赤ちゃんピエロの絵1枚をたまたま見たパリのオックス社の社長から大人のピエロの絵を依頼される[27]。ピエロの絵は、背景を黒にする、必ず涙を流しているなどの約束事があったが、それを知らなかったミラノは紫色を背景とした若い女性のピエロを描いた[27][2]。オックス社の社長に言われて、涙を描き加え、黒い背景色のものも描き、2種類の絵を同時に発売したところ、紫のピエロが爆発的な評判を呼び「恋するピエロ」としてシリーズ化された[27][2]。

人気となったミラノは、オランダのヴェルケルク社、パリのグラフティング社などからもポスターを発表したが、なかでも影響の大きかったのは1981年(昭和56年)に専属契約を求めてきたスウェーデンの世界的なポスター会社であるスキャンデコール社との仕事である[27]。ピエロの絵に関してはオックス社と契約していたため、スキャンデコール社ではアルルカンの「白い道化」シリーズや、花をモチーフにした「花乙女」シリーズを描き、1990年代初頭まで、年に7〜8枚というペースで作品を発表し続けた[28]。スキャンデコール社は絵の版権をドイツ、イタリア、イギリス、アメリカなどのポスター出版社や文房具会社に売り、ミラノの絵は世界中に広まった[29]。ミラノの絵を元にしたアルルカンやピエロの木彫人形が作られ、ドイツのWTG社や、スキャンデコール社の子会社であったドイツのイデコ(IDECO)社などからさまざまなグッズが製作され販売された[29][30]。

日本での再評価

1983年(昭和58年)5月から翌年の4月まで、三修社の語学雑誌『基礎フランス語』の表紙としてパリの風景画を描き、エッセイも連載した[31]。1984年(昭和59年)には『文藝春秋』『毎日グラフ』がヨーロッパでのミラノの活躍を報道した[4]。1986年(昭和61年)4月には平凡社の別冊太陽から藤井千秋との二人画集『乙女のファンタジア』が刊行された[4]。同年7月には東京日本橋の丸善で「藤田ミラノ抒情ポスター展」が開催された[32][注釈 8]。

1988年(昭和63年)11月から1990年(平成2年)10月まで、小学館の家庭雑誌『マフィン』で「マロニエ通信」というコーナーを持ち、風景画とエッセイの連載をした[33]。

2000年(平成12年)4月から6月にかけて弥生美術館で「藤田ミラノ展 ヨーロッパに花開いた日本の抒情」が開催された[34]。同年4月、小学館から『あしたの少女たち 抒情画家、藤田ミラノの世界』が刊行された[4]。

2011年(平成23年)3月、河出書房新社から『藤田ミラノ ヨーロッパに花開いた日本の抒情』が刊行された。同年4月から6月にかけて弥生美術館で第2回「藤田ミラノ展 ヨーロッパに花開いた日本の抒情」が開催された[35]。

往年は、パリと日本を往復しながら暮らした[36][37]。

人物

評価

昭和20年代後半に小学館で『女学生の友』の編集をしていた永井路子は、藤田ミラノについて突然彗星のように現われたと表現し、蕗谷虹児、中原淳一、松本かつぢ、玉井徳太郎、勝山ひろし、藤井千秋と続く抒情画家として位置づけている[6]。そしてミラノが成功した最大の理由は優れたデッサン力にあったのではないかと述べている[40]。

弥生美術館学芸員の中村圭子は、ミラノの少女画の特徴はまっすぐに相手の目を見返してくるような、自信に満ちた強い視線にあるといい、それは異性に媚びることなく、自己主張をするようになった1960年代の少女たちの理想像となったとしている[41]。そして1950年代から60年代にかけて抒情画は少女漫画に席巻されて、ミラノは日本の少女雑誌における最後の抒情画家となったと評している[42]。

1982年6月、やなせたかしはブルガリア旅行の帰途に立ち寄ったパリで、街のいたるところにあるピエロの絵に日本の抒情画に似た東洋的な趣きを感じ、サインを確認したところMIRA FUJITAとあり、藤田ミラノであることを知って衝撃を受ける[43]。1985年4月にはパリに暮らす藤田のアパルトマンを訪問している[44]。やなせは、パリで仕事をしたが成功しなかった蕗谷虹児、中原淳一の名前をあげて、非常にゆるやかなペースで描き続けてきた藤田ミラノは、今は淳一も虹児も超えているかもしれない。いや超えているとぼくは思う。ここではミラノのファンは決して少女だけではない。と評した[45]。しかしその後、中原淳一について書かれたエッセイの中で、やなせは藤井千秋、藤田ミラノについて触れ、二人は日本以外でも活躍したものの、ところが偽物が続出して終わってしまったと述べている[46]。

展覧会

藤田ミラノ展 ヨーロッパに花開いた日本の抒情
2000年(平成12年)4月1日 - 6月27日、弥生美術館[34]
藤田ミラノ展 ヨーロッパに花開いた日本の抒情
2011年(平成23年)4月1日 - 6月26日、弥生美術館[35]

脚注

参考文献

関連文献

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