藪波村

From Wikipedia, the free encyclopedia

廃止日 1954年7月20日
廃止理由 新設合併
津沢町藪波村水島村砺中町
現在の自治体 小矢部市
日本の旗 日本
やぶなみむら
藪波村
廃止日 1954年7月20日
廃止理由 新設合併
津沢町藪波村水島村砺中町
現在の自治体 小矢部市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方北陸地方
都道府県 富山県
西礪波郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 7.53[1] km2.
総人口 2,074[2]
1953年昭和28年)3月[2]
隣接自治体 石動町、水島村、津沢町、西野尻村東蟹谷村
藪波村役場
所在地 富山県西礪波郡藪波村大字浅地[3]
座標 北緯36度38分18秒 東経136度52分26秒 / 北緯36.63839度 東経136.87386度 / 36.63839; 136.87386座標: 北緯36度38分18秒 東経136度52分26秒 / 北緯36.63839度 東経136.87386度 / 36.63839; 136.87386
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

藪波村(やぶなみむら)は、かつて富山県西礪波郡にあった。現在の小矢部市中南部の薮波地区で、全域に散居村が広がる。北陸自動車道小矢部川サービスエリアも地区内にある。

村名は、万葉集大伴家持の歌『荊波の里に宿借り春雨にこもりつつむと妹に告げつや』による。荊波の里の意味は、家持が砺波地方を巡視した頃、当地方は未開の地で雑草、雑木の薮原であったことが由来となっている[3]

  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、礪波郡四日町村、石坂出村、下次郎島村、高木村、浅地村の区域の一部、安養寺新村の区域の一部、戸久新村の区域の一部、島出村の区域の一部、島村の区域の一部、茄子島村の区域の一部、名畑村の区域の一部及び経田村の区域の一部の区域をもって、礪波郡藪波村が発足する。
    • 当初は、浅地村外12ヶ村の戸長役場管轄を藪波村、小森谷村外15ヶ村を管轄する蟹谷村という原案であった(これは富山県より諮門されていた)。しかし、両村中央部の平桜村外6ヶ村が反対し、同区域で1村の新設を主張したことから、二村分立は区域が過大であるとの見解が成立し、西部を北蟹谷村、中部を東蟹谷村、東部を藪波村として調整されたといわれている[4]
  • 1890年(明治23年) - 旧戸長役場の当時から借り受けていた仲平宅を引き続き借り受け、村役場を開始[5]
  • 1896年(明治29年)3月29日 - 郡制の施行のため、礪波郡が分割して、西礪波郡が発足により、西礪波郡に所属となる。
  • 1901年(明治34年)4月 - 独立の村役場庁舎が建設開庁(1900年〔明治33年〕に石動町より民家を買い受け改造。建設総経費は530円)[6]
  • 1927年昭和2年)10月 - 津沢町の宮永企業場の住宅総木當造の建物を買い取り一部改造し、役場庁舎とする、年内に建築が終了し、1928年(昭和3年)3月27日に設備完了し開庁式が挙行される。以降は砺中町発足まで村役場として使用され、その後は藪波公民館となった[6]
  • 1954年(昭和29年)7月20日 - 西礪波郡津沢町、藪波村及び水島村が合併して、西礪波郡砺中町が発足する。
    • 津沢町を中心とする合併案作成について、藪波村では一部分村して石動、津沢両町に合併する意見もあったが、分村は村の立場を考えると不利であるとして、挙村一致の態勢で津沢町へ合併する事を決めた[7]

歴代村長

出典→[8]

  1. 仲平(1889年8月 - 1890年4月)
  2. 兜谷徳平(1890年4月18日 - 1894年4月27日)
  3. 柴田久一郎(1895年3月20日 - 1899年4月27日)
  4. 石野藤作(1899年4月14日 - 1901年3月1日)
  5. 柴田久一郎(1901年3月14日 - 1903年6月7日死亡)
  6. 吉岡良作(1903年7月15日 - 1928年10月3日)
  7. 林田長作(1928年10月20日 - 1938年1月28日)
  8. 石野庄作(1938年2月5日 - 1944年12月27日)
  9. 佐土外松(1945年1月22日 - 1945年11月16日)
  10. 吉岡太郎平(1945年12月3日 - 1946年12月9日)
  11. 西尾竹次郎(1947年4月6日 - 1954年9月合併により失職)

参考文献

脚注

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI