蘇循

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蘇 循(そ じゅん、生年不詳 - 922年)は、末から五代十国時代にかけての官僚

咸通年間、進士に及第し、尚書省の官吏を歴任した。昭宗のとき、礼部尚書となった。昭宗が洛陽に遷都した後、朱全忠の勢力が日増しに強まった。唐朝の旧臣たちは屈辱や憂憤に耐えられず、出仕しようとしない者も多かったが、蘇循はひとり朱全忠におもねって出仕した。天祐3年(906年)、朱全忠が淮南節度使の楊行密を攻めて淠河で敗北し、寿州に駐屯すると、哀帝九錫を賜りたいと迫った。唐の朝臣たちがその是非を議論すると、蘇循は朱全忠の功業を讃えて、九錫の賜与に賛同した。天祐4年(907年)、朱全忠が哀帝に譲位を迫ると、蘇循は冊礼副使をつとめた。後梁開平元年(同年)、太祖(朱全忠)が即位し、元徳殿で宴会をおこなうと、蘇循は張禕薛貽矩らとともに太祖の徳業を讃えた[1][2]

子の蘇楷が郷里に帰るよう命じられると、蘇循は河中府に帰って朱友謙を頼った。朱友謙に従って晋王李存勗に帰順した。李存勗が魏州で即位しようとしたが、百官の多くが欠けていたため、唐の故官を求めると、朱友謙は蘇循を魏州に派遣した。ときに張承業はまだ李存勗に登極させたくなかった。しかし蘇循が万歳を歓呼し、泣いて臣と称したことから、李存勗を喜ばせ、張承業を怒らせた。盧汝弼が死去すると、蘇循は本官のまま河東節度副使となった。天祐19年(922年)春、蘇循は蜜雪を食べたことが原因で、熱病のため死去した。同光2年(924年)、尚書左僕射の位を追贈された[3][4]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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