蜂屋謙入 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 文禄2年閏9月(1593年10月または11月)改名 謙入(法号) 凡例蜂屋謙入時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 不詳死没 文禄2年閏9月(1593年10月または11月)改名 謙入(法号)官位 従五位下大膳大夫主君 織田信雄→豊臣秀吉氏族 津川氏→蜂屋氏父母 父:斯波義統兄弟 斯波義銀、謙入、津川義冬、了妙尼(願得寺顕悟室)子 五郎助[1]テンプレートを表示 蜂屋 謙入(はちや けんにゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。津川氏とも称した[2]。謙入は剃髪後の法号であり、諱は不明。 なお、蜂屋頼隆の養子であったために「蜂屋」を称したとする説もある[3]。 天正12年(1584年)3月、弟の津川義冬が主君・織田信雄によって殺害された際、津川義近とともに伊勢松ヶ島城に立て籠もって信雄の軍と戦うが敗れて退城し[4]、その後豊臣秀吉に仕えた[2]。 同15年(1587年)、秀吉の九州征伐に従い、7月に従五位下大膳大夫に任ぜられた[5]。 天正17年(1589年)3月、聚楽第で発生した落書き事件に関連して、兄の津川義近が細川信良・尾藤知宣と共に巻き込まれて一時捕縛される事件が起きているが、歴史学者の木下聡は当時の状況から実際に捕縛されたのは弟の謙入の誤りであったとしている[3]。 同年3月1日、『言経卿記』の翌日の条によれば、天満本願寺で、蜂屋謙入をさす「武衛ケンユウ」[6]と尾藤道休という浪人衆が住宅を壊して町に放火する騒動を起こして、武衛兄弟(義近・謙入)と願得寺顕悟夫妻と道休、女房衆らが、町人によって逮捕されるという事件が起こった。秀吉の指示を受けた奉行増田長盛と石田三成が来て、道休は本願寺光佐の命令で斬首された。4日、山科言経は謙入に家具を渡すなど親しくしており、下間頼亮に成敗人の預物(財産)を隠し持っていないと誓書を出さされている。7日夜に顕悟は自害し、8日、道休の妻子と66人の町人が京都に連行されたとあるが[7]、謙入らについては記述がない。 同18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し[8]、義近とともに北条氏政の助命を秀吉に進言するが、秀吉の機嫌を損ねて失敗した[9]。ただし、前述の木下説によれば、聚楽第の一件で秀吉から追放された謙入が赦免を受けたのは天正20年/文禄元年(1592年)頃のことであるため、小田原征伐当時は浪人中で従軍していないことになる[3]。 文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、西丸の警備を行った[10]。 同2年(1593年)閏9月に死去し、家名は断絶した[12]。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 阿部 1990, p. 636. 1 2 3 4 5 6 7 高柳 & 松平 1981, p. 195. 1 2 3 木下聡「斯波氏の動向と系譜」(所収:木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2) ↑ 『武家事紀』[2]。 ↑ 『御湯殿上日記』[2]。 ↑ 斯波氏は武衛家と呼ばれていた。 ↑ 山科言經 著、東京大学史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 言經卿記 3』岩波書店〈大日本古記録〉、1962年、139, 190, 192頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2529560/102 国立国会図書館デジタルコレクション。 ↑ 『伊達家文書』[2]。 ↑ 『浅野家文書』[2]。 ↑ 『太閤記』[2]。 ↑ 高柳 & 松平 1981, pp. 195–196. ↑ 『駒井日記』[11]。 参考文献 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』(増訂版)吉川弘文館、1981年、195-196頁。 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、636頁。ISBN 4404017529。 Related Articles