袁象先

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袁 象先(えん しょうせん、864年 - 924年)は、末から五代十国時代にかけての官僚軍人後梁の太祖朱全忠の外甥にあたる。本貫宋州下邑県[1][2]

寛大温厚な性格で、物に逆らわなかった。あるとき象先は1羽の水鳥を弓で射て、矢は当たらずに水中に落ちたが、下で2匹の鯉を貫いていたので、見た者を驚かせた。朱全忠が夷門に駐屯すると、象先は銀青光禄大夫の位を受け、検校太子賓客となり、御史中丞を兼ねた。景福元年(892年)、検校左散騎常侍から検校工部尚書に転じ、親従馬軍指揮使をつとめ、左静辺都指揮使を兼ねた。乾寧5年(898年)、検校尚書右僕射・左領軍衛将軍同正となり、宣武軍内外馬歩軍都指揮使をつとめた。光化2年(899年)、知宿州軍州事をつとめた[1][2]

天復元年(901年)、宿州刺史に任じられ、宿州団練・埇橋鎮遏都知兵馬使をつとめた。楊行密が宿州に進攻し、宿州城を包囲すると、象先は防戦にあたったが、援軍がやってこず、陥落の危機に陥った。象先は夢のお告げを受けて、陳璠の廟を立てると、大風雨が起こり、楊行密の軍は撤退した。天復3年(903年)、知洺州軍州事をつとめた[3][2]

天祐3年(906年)、陳州刺史・検校司空となった。この年、陳州では洪水が起こり、民衆が飢えたが、ブドウに似た植物が生え、その果実を食べて飢えをしのいだ。後梁の開平2年(908年)、象先は左英武軍使に任じられ、左神武軍統軍・右羽林軍統軍を歴任した。開平3年(909年)、右衛上将軍に転じ、汝南県男に封じられた。開平4年(910年)、宋州節度留後をつとめた。着任して5カ月、天平軍節度留後に転じた。鄆州の境で飢饉が発生し、人口が流出したため、象先は官倉を開いて救恤にあたった。開平5年(911年)、朱全忠が北征すると、象先は鎮州東南行営都招討副使となり、開国伯に進封された。兵を率いて蓨県を攻撃したが、勝利できず撤退した。まもなく命を受けて鄆州から開封府に赴こうとしたが、鄆州の人に遮られて、石橋を壊して進めなくされた。そこで象先は他の門から逃げて上京した。ほどなく左龍武軍統軍に任じられ、侍衛親軍都指揮使を兼ねた[4][2]

乾化3年(913年)、魏博節度使の楊師厚と謀って、朱友珪洛陽で殺害した。末帝が即位すると、象先は功績により検校太保・同平章事となり、洪州節度使を遥領し、開封尹を代行し、判在京馬歩軍諸軍事をつとめ、開国公に進封された。乾化4年(914年)、青州節度使に任じられ、検校太傅を加えられた。ほどなく宋州節度使に移され、検校太尉を加えられた[4][5]

同光元年(923年)、後唐荘宗が後梁を滅ぼすと、象先は率先して後唐に降り、洛陽に入朝した。検校太尉・同平章事のまま、宋亳耀輝潁節度使となり、李姓と紹安の名を賜った。ほどなく宋州に帰った。同光2年(924年)、郊祀の礼がおこなわれると、象先は再び入朝した。また宋州に帰り、その年の夏に病没した。享年は61[6]太師の位を追贈された。後周広順年間、さらに中書令を贈られ、楚国公に追封された[7][8]

家族

の南陽郡王袁恕己の末裔を自称していた。

  • 曾祖父:袁進朝(成都少尹)
  • 祖父:袁忠義(忠武軍節度判官)
  • 父:袁敬初(太府寺卿)
  • 母:万安大長公主(朱全忠の妹)[1]
  • 長男:袁正辞(衢州刺史・雄州刺史)
  • 次男:袁嶬(後周の顕徳年間に滄州節度使)[7]

脚注

伝記資料

参考文献

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