袁高

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袁 高(えん こう、727年 - 786年)は、唐代中期の官僚は公頤[1][2]本貫滄州東光県[3][2]

陳州刺史の袁建康(袁恕己の子)の子として生まれた。若くして正義感に満ち、意気軒昂として、名誉と節操を慕っていた。進士に及第し、節度使の府に召し出されて、補佐役を歴任した。代宗が即位すると、袁高は召し出されて入朝し、給事中御史中丞に累進した。建中2年(781年)、京畿観察使に抜擢された。事を論じて徳宗の意思にそむき、韶州長史に左遷された[4][5]。ほどなく湖州刺史に転じた。興元元年(784年)、再び給事中に任じられた[6]

貞元元年(785年)、徳宗が吉州長史の盧杞饒州刺史として任用しようと、袁高に詔書の起草を命じた。袁高は宰相の盧翰劉従一に面会して、盧杞の復活を阻止するよう求めた。しかし盧翰と劉従一は賛同しなかった。そこで袁高は盧杞を弾劾する上奏をおこない、陳京・趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦らが続いて上奏した。徳宗はこのため盧杞の起用をあきらめた[7][8]

貞元2年(786年)、朱泚の乱の後で、関中の民衆が困窮し、農耕地が荒廃していることから、徳宗は諸道から耕牛を進上させ、牛を均等に農民に給付させることにした。袁高は田50畝以下を所有する人には2戸あたり牛1頭を給与するよう上奏して聞き入れられた。ほどなく袁高は在官のまま死去した。享年は60。礼部尚書の位を追贈された[9][8]

脚注

伝記資料

参考文献

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