裴潾

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裴 潾(はい りん、生年不詳 - 838年)は、唐代官僚文人本貫絳州聞喜県

若くして学問につとめ、隷書を得意とした。蔭官により出仕した。元和年間、左拾遺に累進し、左補闕に転じた。元和12年(817年)、裴潾は宦官を館駅使としないよう上疏した。憲宗に聞き入れられなかったものの、その上奏を褒められ、起居舎人に任じられた[1][2]

憲宗はその晩年に方士の柳泌の薬を服用し、日増しに怒りっぽく、咽喉が渇くようになっていた。裴潾は上疏してこれを諫めた。憲宗の意に逆らったため、江陵県令に左遷された[3][4]

元和15年(820年)、穆宗が即位し、柳泌らが処刑されると、裴潾は長安に召還されて兵部員外郎となった。のちに刑部郎中に転じた。ときに太子前衛率府倉曹参軍の曲元衡が柏公成の母を杖殺した。法官は柏公成の母を無罪とみなしたが、柏公成は曲元衡から金を受け取って、母の死を官府に訴えなかった。裴潾は曲元衡に杖罰六十を加えて配流し、柏公成を死刑に処した。考功郎中・吏部郎中を歴任した[5][6]

宝暦元年(825年)、裴潾は給事中に任じられた。大和4年(830年)、汝州刺史として出向し、御史中丞を兼ねた。違法に人を杖殺した罪に問われて、太子左庶子・分司東都に降格された。大和7年(833年)、左散騎常侍に転じ、集賢院学士をつとめた。昭明太子蕭統文選』に続く歴代の文章を集めて、『大和通選』30巻を編纂した[7][6]

大和8年(834年)、裴潾は刑部侍郎となった。ほどなく華州刺史として出向した。大和9年(835年)、再び刑部侍郎に任じられた。開成元年(836年)、兵部侍郎に転じた。開成2年(837年)、集賢院学士・判集賢院事を加えられた。ほどなく河南尹として出向した。入朝してまた兵部侍郎となった。開成3年(838年)4月、死去した。戸部尚書の位を追贈された。は敬といった[7][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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