裴皞
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経歴
名門の一族に生まれた。挙措が端正秀麗で、性急であり、剛直で隠すことがなかった。若くして学問を好み、文芸に心をくだいた。騒乱の最中にあっても、書籍を手放さなかった。光化3年(900年)、進士に及第し、校書郎を初任とした。諫言の職を歴任した。後梁のはじめ、文学の才能で推挙され、翰林学士・中書舎人に転じた[3][2]。
後唐の同光2年(924年)、裴皞は知礼部貢挙をつとめ[4]、馬裔孫や桑維翰を進士とした[5][2]。礼部侍郎に抜擢された[6]。天成2年(927年)、戸部侍郎に転じた[7]。天成3年(928年)、兵部侍郎に任じられた[8]。天成4年(929年)、失言があり、太子賓客に降格された[9]。長興4年(933年)、老齢のため兵部尚書として致仕した[10]。
後晋の天福2年(937年)、裴皞は工部尚書として起用された[11]。天福3年(938年)、再び老齢を理由に引退を願い出て、尚書右僕射として致仕した[12]。天福5年(940年)4月、死去した[13]。享年は85。太子太保の位を追贈された[5][2]。