裴英起
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渤海相の裴約の子として生まれた。聡明でユーモアに富み、劇談を好み、礼儀や規範に拘らなかった。東魏に仕えて定州長史に上った。高澄に召し出されて行台左丞となった[2][3]。武定末年、洛州刺史となった[4]。北斉の天保年間、都官尚書となり、侍中を兼ねた[2][3]。
天保7年(556年)3月、英起は蕭軌・李希光・東方老・王敬宝らとともに長江を渡り、任約・徐嗣徽らと合流して柵口に進出し、梁山に向かった。梁の帳内盪主黄叢の迎撃を受けて敗れ、前軍の船艦を焼かれた。軍を整えて蕪湖を保った。5月、秣陵故城に到達した[5][6]。石頭城を襲撃して攻め落とした[7][3][8]。6月、英起は鍾山の西で陳霸先率いる梁軍と戦い、長雨に遭って敗れ、捕らえられて殺害された[9][10][11][12][13][6]。開府・尚書左僕射の位を追贈された[2][3]。