天保6年(1835年)、宇和島藩士・松田覚之助公博の次男として生まれる。母は中井九郎右衛門の娘である。幼名は雪江。のち実兄・松田源八郎に養育された。
藩校明倫館で学び、嘉永6年(1853年)には文学出精を賞せられている。同年4月7日、儒学に秀でたため官費留学生として小松藩の儒者・近藤南海(近藤篤山の子)の塾に入門した。
安政3年(1856年)1月12日、明倫館塾長に就任。同年7月、薩摩藩の軍艦が難破し、領内荘深浦で修繕される事件が発生した。この監督に来た薩摩藩士・原直助が物産学(殖産興業)に通じていたため、藩命により雪江はその学を修めた。
文久元年(1861年)、本来の家系に復し、西園寺姓への改姓を藩庁に申請して許可された。慶応3年(1867年)11月、徴士を命じられ大阪に勤務。明治元年(1868年)1月3日には官軍に従って鳥羽・伏見の戦いに従軍した。同年2月、堺事件に際しては、大久保利通を正使とし、東久世通禧・中井弘・五代友厚・木村得太郎らとともに外交交渉使節として派遣された。
同年4月、運上所勤務を命じられ、明治2年9月には大阪府少参事、翌3年5月には大阪府権大参事に任じられたが、同年10月に辞職した。その後、明治4年に神山県七等出仕、明治5年11月に再び辞職している。
明治7年(1874年)、第一国立銀行取締役となる。明治8年(1875年)8月1日の臨時株主総会では、公成・渋沢栄一・三井八郎右衛門・永田甚吉・三井元之助・深川亮蔵の7名が取締役に選任され、協議の結果、渋沢を頭取に推挙した。この決定により、渋沢は名実ともに第一国立銀行の主宰者となった。
以後、日本鉄道会社、東京瓦斯、石川島造船所などの取締役を務め、近代日本の産業発展に関与した。
明治37年(1904年)11月7日、木挽町の自宅にて死去。享年71。戒名は「雪江院殿公成自然居士」。墓所は谷中御隠殿橋の畔(谷中霊園)にある。